新聞界に入る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/21 03:58 UTC 版)
明治35年(1902年)、又吉27歳の秋、諌早出身で有名な漢詩人野口寧斎の世話で横浜の新聞社「横浜新報」に入社した。翌年、政友会代議士日向輝武と出会い、その世話で新井イチと結婚する。日向は移民事業で財をなし、手広く事業に投資していた。その中に電報通信社(電通の前身)があり、その会長になっていた。日向のすすめで通信社の仕事に鞍替えし明治38年(1905年)東京に戻る。代議士になろうとおもい、そのために資金を作ろうと事業に取り組む。ランプの口金、英語講義録の出版などを手掛けたが失敗し、莫大な借財を負うこととなった。明治41年(1908年)長女2歳、長男が生まれたばかりで路頭に迷う人生最大の危機だった。この危機に日向の援助がありなんとか切り抜けた。 学生時代に小説の手ほどきを受けた小杉天外が、「無名通信」という雑誌を発行する企画があることを知り、編集長として職を得、3年ほど続ける。ここで政界話などの雑文を覚える。また発禁処分を三回食らいながら藩閥、官僚、軍部批判をし、政党政治を支持する論調で、実力を蓄えた。 明治44年(1911年)毎日新聞(東京横浜毎日新聞を改題)が報知新聞に身売りした時期に再び新聞社に入った。この時すでに36歳になっていた。立憲政友会の記者クラブ十日会のメンバーになり、報道記者ではないがいわゆる遊軍記者で、当時新聞界では「閑文字」と呼ばれ、政界の昔話や、人物評論や、社会批評などの雑文書きであつた。中でも人物批評は得意分野でその取材で多数の政界人と面識を持った。いわゆる桂園時代で西園寺総裁率いる政友会に密着し人脈を構築しニュース源をひろげかつ信頼性を獲得していった。
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