新聞発行者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 01:48 UTC 版)
坂本はもともと急進的な政治思想を持っており、その政治思想を主張するために新聞発行も行っている。1889年(明治22年)2月6日に創刊された自由党の機関紙「岡山日報」を資金面で援助した。同新聞社の社長に山崎弥平、主筆に植木枝盛を招いた。ただし、山崎は短期間で退き、坂本が同社社長となっている。しかしながら、大同団結運動が分裂し、板垣退助が愛国公党を結党するなどしたことを受けて、坂本も岡山日報から退く。1891年(明治24年)に、新たな隔週機関紙「進歩」を刊行するも、論調の過激さから発禁処分となり僅か9号で廃刊となった。 1892年(明治25年)には、日刊新聞「中国民報」を創刊した。同社の本社は、岡山県岡山市東中山下(現在の岡山市北区中山下)にあった。同紙は、坂本の政治主張を反映した機関紙の色が強く、後に山陽新報と激しい言論合戦、販売合戦を繰り広げることとなる。後述するように坂本は政治家としても活動するが、1912年(大正元年)末に第3次桂内閣が立ち上がった頃に、これまで対立していた立憲同志会へと突如鞍替えしたことで、地元岡山での人気が大きく落ち、中国民報の売り上げも激減した。この時の発行部数の落ち込みは大きかったようで、当時の中国民報主筆が「新聞は3部刷ればよい。1部は納本用、1部は社長宅、1部は保存用。」と述べるほどであった。このため、中国民報の経営は大きく傾き、1913年(大正2年)に会社を大原孫三郎に売却した。売却額は、5万円だった。
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