共産主義政権による弾圧の概要
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「共産主義政権による弾圧の概要」の解説
1917年のロシア革命によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。 聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。 1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された。1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。 「新致命者」も参照 当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)は、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく制限された。政府の迫害を恐れ、多数の亡命者も出た。1927年のセルギー府主教によるソ連政権への「忠誠宣言」は反発を招き、カタコンベ系諸正教会が形成された。彼らは主流派正教会からは古儀式派と同じく分離派と蔑称された。カタコンベ系諸正教会の側はセルギー府主教の「忠誠宣言」を受け入れる主流派ロシア正教会を「セルギー派」と呼び非難した。この分裂は現在も継続している。 教会は文化面でも多大な弾圧を被った。当時最も活躍しており多作な聖歌作曲家の一人であったパーヴェル・チェスノコフも革命以降は聖歌作曲を禁じられ、同様に全ての音楽家が聖歌に関わることを禁止もしくは制限された。革命後、ソ連時代を通じてペレストロイカより前に聖歌の録音が許されたのは、セルゲイ・ラフマニノフの作品『徹夜祷』を世俗合唱団が録音した一回のみである。 1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂がダイナマイト爆破された。他にもクロンシュタットのイオアンが奉職していた聖アンドレイ大聖堂や、カザン・クレムリン(世界遺産)の生神女福音聖堂(ブラゴヴェシェンスキー聖堂・破壊は1930年)も破壊されている。
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