検挙・獄死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 07:14 UTC 版)
1941年には機関誌『価値創造』を発刊するが、翌年廃刊。戦時下の特別高等警察による監視が続けられる中で、牧口は国内各地において大善生活実験証明座談会を開催し、戦前の最盛期には、後の創価学会の最高幹部となる和泉覚、辻武寿、原島宏治、小泉隆らを含め、3000人の会員を擁すまでとなる。 1943年5月、神社神道を批判したことで機関誌『新教』が廃刊となる。6月、日蓮正宗総本山大石寺に呼ばれた牧口と戸田らは、管長鈴木日恭と堀日亨同席の下、庶務部長から「学会も一応、神札を受け取るようにしてはどうか」と申し渡されるが、これを拒絶する(神札問題)。その後、創価教育学会は登山を禁止された。 同年7月6日、伊豆下田での座談会開催直後、伊勢神宮の神札を祭ることを拒否したために、治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で下田警察署に連行される。同日、戸田らも検挙。この一連の弾圧で21名の幹部が検挙された。牧口は獄中においても転向を拒否し、1944年11月18日、東京拘置所内の病監で栄養失調と老衰のため死去した。
※この「検挙・獄死」の解説は、「牧口常三郎」の解説の一部です。
「検挙・獄死」を含む「牧口常三郎」の記事については、「牧口常三郎」の概要を参照ください。
- 検挙・獄死のページへのリンク