歴史的影響と評価
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「コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の記事における「歴史的影響と評価」の解説
アラブ軍による二度目のコンスタンティノープルの包囲戦は、674年から678年にかけての緩やかな包囲戦とは異なり、ビザンツ帝国の首都に対して直接的で十分に計画された攻撃を開始し、陸と海から都市を完全に封鎖しようとしていたため、最初の包囲戦よりもビザンツ帝国にとってはるかに危険なものであった。ビザンツ学者のラルフ=ヨハンネス・リーリエ(英語版)は、この包囲戦はビザンツ帝国の「頭を切り落とす」ためのイスラーム帝国による最後の努力を示しており、攻略が成功した場合には残りの地域、特にアナトリアは容易に占領されていたであろうと述べている。アラブ軍の失敗の原因は、主に本拠地のシリアから非常に離れた場所での作戦行動による兵站の問題にあったが、ギリシアの火の使用によるビザンツ海軍の優位性、コンスタンティノープルの要塞の防御力、そしてレオン3世の策略と交渉力も重要な役割を果たした。 アラブ軍による包囲の失敗は、ビザンツ帝国とイスラーム帝国の間の戦争の本質に大規模な変化をもたらした。コンスタンティノープルの征服というイスラーム教徒の目標は事実上放棄されることになり、二つの帝国の境界はトロス山脈とアンティトロス山脈(英語版)に沿った線で固定化され、両国は定期的な襲撃と反撃を境界線を超えて繰り返した。この絶え間ない国境紛争によって国境の町と要塞は頻繁に支配者が入れ替わったものの、10世紀にビザンツ帝国によってアラブ側の国境地域が征服されるまで、国境の基本的な枠組みは2世紀以上も変化することがなかった。海上ではイスラーム帝国の東部艦隊の活動が1世紀にわたり低下し、西方のイフリーキヤの艦隊のみがビザンツ領のシチリア島への定期的な襲撃を継続した。しかし、それも752年以降は急速に沈静化した。そして782年にハールーン・アッ=ラシードの下でクリュソポリスまでアッバース朝軍が進軍したことを除き、ビザンツ帝国の首都の前にアラブの軍隊が現れることは二度となかった。その結果としてイスラーム教徒の側では最終的に襲撃自体がほとんど儀式的な性格を帯びるようになり、大部分はジハードの継続的な示威行動として位置づけられ、イスラーム共同体の指導者の役割の象徴としてカリフによって支援された。 包囲戦の結果は歴史的に広範囲にわたって影響を及ぼした非常に重要なものであった。歴史家のエッケハルト・エイコフは、地中海がアラブの海となり、西ヨーロッパのゲルマン人の後継国家が地中海の文化的ルーツから切り離されることになるため、「中世の終わりにオスマン帝国によって起こったように、勝利を収めたカリフが中世の初めの時点ですでにコンスタンティノープルをイスラーム世界の政治的な首都にしていたならば、ヨーロッパのキリスト教世界への影響は計り知れないものであっただろう。」と記している。軍事史家のポール・K・デイビス(英語版)は、この包囲戦の重要性を次のように要約している。「イスラーム教徒の侵入を阻止したことでヨーロッパはキリスト教徒の手に留まり、ヨーロッパへの深刻なイスラーム勢力による脅威は15世紀まで存在しなかった。この勝利はトゥール・ポワティエ間の戦いにおけるフランク王国の勝利と同時期に起き、イスラーム勢力の西方への拡大を南部地中海世界に限定した。」。これらの理由から、歴史家のジョン・バグネル・ベリーは、718年を「エキュメニカルな年」と呼んだ。一方、ギリシアの歴史家のスピリドン・ランブロス(英語版)は、この包囲戦をマラトンの戦いに、レオン3世をミルティアデスになぞらえている。これらの評価によって、軍事史家はしばしばこの包囲戦を、世界史の「天下分け目の戦い」の一覧に含めている。
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