歴史的意味および余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 04:53 UTC 版)
「ノルマンディー上陸作戦」の記事における「歴史的意味および余波」の解説
全体的に見た場合この作戦は成功であった。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した。その結果ドイツ軍は、陸上でも二正面作戦を展開することを余儀なくされ、程なく東部戦線で赤軍が開始したバグラチオン作戦に満足に対応することができなかった。この作戦でドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受け、占領していた地域のかなりの部分を失い、挟み撃ちになったドイツは継戦能力を大きく削がれることとなった。 しかし、ひとつの作戦としてみた場合は、オーバーロード作戦は完全に成功したとは言いがたい。まず、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取った。作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブールは6月26日まで抵抗を続け、占領時点で港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていた。この港湾は8月末まで機能しなかった。同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったカーンも占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからであった。作戦開始から40日間の間に達成するはずだった目標(カーン及びシェルブールの占領)をどちらも達成できなかった。 港湾施設の占領の遅れに起因した悪影響として、重装備の揚陸が大幅に遅延し、通常補給にも多少の遅延があった。ただし、Dプラス10日にはノルマンディー海岸で人工港のマルベリーが稼働を始め、上陸部隊の物資不足は引き起こさなかった。 ドイツ軍の守備の妙もあり、連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れた。1944年8月、南フランス上陸作戦(ドラグーン作戦)が行われたが、ドイツの抵抗で、プロヴァンス地方が解放されただけであり、フランス全土の解放は、イタリア戦線で1945年1月、連合軍がゴシック線を突破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなった。 対米英和平に傾いたルントシュテット元帥は7月2日に更迭され、西部方面軍司令官にはギュンター・フォン・クルーゲが就任した。クルーゲとロンメルは不仲であり、西部方面軍の結束はさらに乱れた。また、反ヒトラーグループに参加していたシュパイデル参謀長もロンメルに対して対米英和平とヒトラー排除を進言するようになり、ロンメルも対米英和平を唱えるようになった。これは後にロンメルが粛清される原因ともなった。 6年後に勃発した朝鮮戦争において国連軍を指揮したダグラス・マッカーサー元帥は、このノルマンディー上陸作戦やアンツィオ上陸作戦などのアメリカ陸軍が主導したヨーロッパ戦線の上陸作戦を全く評価しておらず、仁川上陸作戦においては、自らが所属するアメリカ陸軍ではなく、太平洋戦線でガダルカナルの戦いやペリリューの戦いなどで、大日本帝国軍を相手にした幾多の上陸作戦を成功させた第1海兵師団を上陸部隊とし、上陸作戦の作戦立案はアメリカ海軍のジェームズ・ドイル(英語版)提督が行うといったように、マッカーサーが連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)司令官として行ってきた太平洋戦線型の上陸作戦となった。仁川上陸作戦はマッカーサーの目論見通りとなり、北朝鮮軍の抵抗が予想以上に少なく、わずか3日でソウルを奪還した。
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