文久2年、京状探索
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文久2年(1862年)4月、薩摩藩の実力者島津久光の挙兵上洛によって京都をめぐる情勢が大きく変化した。また、5月には勅使として大原重徳が薩摩藩兵に護衛されて江戸に下向することが決まった。久保田藩主佐竹義就(この年、義堯に改名)は、幕府への忠誠を貫こうとする立場から江戸に参府したものの、事態の急変は彼を不安にさせ、江戸家老宇都宮典綱の進言にもとづいて5月18日、延胤を京都に派遣して隠密探索を命じた。 延胤が京状探索拝命の際に家老小野岡義礼にあてたと思われる提出書には、京都・大坂での情報探索、特に表向きの風説では把握しえない内密・極密情報を入手する必要性を述べており、そのためには密事に携わる人物とのあいだに同志関係が成り立っているように見せることが肝要で、さらに堂上人と親交を取り結ぶことができれば極秘情報の詳細が入手可能であるとの見通しを記している。 延胤は門弟の角田忠行を同行させて5月20日に江戸を発した。大坂を経由して6月7日に伏見の久保田藩邸に到着しており、到着早々、薩摩藩士岩下方平と対面して寺田屋騒動の顛末や久光上京の目的について尋ね、長門国長府藩の船越清蔵(小出勝雄)らより、長州藩の情勢、特に文久元年に航海遠略策を唱えた長井雅楽の長州藩内における地位について探りを入れている。 6月9日、豊後国岡藩の小河一敏と面会し、小河自身の活動の目的について説明を受けた。小河は、安政6年(1859年)に入門した門弟であり、延胤とは懇意の間柄であった。小河が延胤に語ったところによれば、久光挙兵の風聞をうけ、中国・四国・九州地方の諸藩の勢力を糾合して薩摩藩への協同を目指しており、寺田屋騒動ののちも小河自身は薩摩藩邸に身を置きながら活動を継続、列藩が朝廷を奉戴する体制の確立を活動目標としていた。延胤は翌6月10日、小河より岩倉具視との面会を仲介され、14日、岩倉より呼び出しを受け、6月15日に岩倉と面会、このとき久保田藩国事斡旋要請を受けている。延胤が約1ヶ月の京状探索を終えて江戸に戻ったのは、6月24日のことであったが、岩倉の久保田藩国事斡旋要請書翰は藩の上層部を悩ませるものであった。
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