文久2年、京状探索とは? わかりやすく解説

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文久2年、京状探索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:16 UTC 版)

平田延胤」の記事における「文久2年、京状探索」の解説

文久2年1862年4月薩摩藩実力者島津久光挙兵上洛によって京都をめぐる情勢大きく変化したまた、5月には勅使として大原重徳薩摩藩兵に護衛され江戸下向することが決まった久保田藩佐竹義就(この年義堯改名)は、幕府への忠誠貫こうとする立場から江戸参府したものの、事態急変は彼を不安にさせ、江戸家老宇都宮典綱の進言もとづいて5月18日、延胤を京都派遣して隠密探索命じた。 延胤が京状探索拝命の際に家老小野岡義礼にあてたと思われる提出書には、京都・大坂での情報探索、特に表向き風説では把握しえない内密情報入手する必要性述べており、そのためには密事携わる人物とのあいだに同志関係が成り立っているように見せることが肝要で、さらに堂上人と親交取り結ぶことができれば極秘情報詳細入手可能であるとの見通し記している。 延胤は門弟角田忠行同行させて5月20日江戸発した大坂経由して6月7日伏見久保田藩邸に到着しており、到着早々薩摩藩岩下方平対面し寺田屋騒動顛末久光上京目的について尋ね長門国長府藩船越清蔵小出勝雄)らより、長州藩情勢、特に文久元年航海遠略策唱えた長井雅楽長州藩内における地位について探りを入れている。 6月9日豊後国岡藩小河一敏面会し小河自身活動の目的について説明受けた小河は、安政6年1859年)に入門した門弟であり、延胤とは懇意間柄であった小河が延胤に語ったところによれば、久光挙兵風聞をうけ、中国・四国・九州地方諸藩勢力糾合して薩摩藩への協同目指しており、寺田屋騒動ののちも小河自身薩摩藩邸に身を置きながら活動継続列藩朝廷奉戴する体制確立活動目標としていた。延胤は翌6月10日小河より岩倉具視との面会仲介され、14日岩倉より呼び出しを受け、6月15日岩倉面会、このとき久保田藩国事斡旋要請受けている。延胤が約1ヶ月の京状探索終えて江戸戻ったのは、6月24日のことであったが、岩倉久保田藩国事斡旋要請書翰は藩の上層部を悩ませるものであった

※この「文久2年、京状探索」の解説は、「平田延胤」の解説の一部です。
「文久2年、京状探索」を含む「平田延胤」の記事については、「平田延胤」の概要を参照ください。

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