文久3年から元治元年まで
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「風雲秘密探偵録」の記事における「文久3年から元治元年まで」の解説
大原・三条両勅使の下向や島津久光が主導する文久の改革を経て、時流は奉勅攘夷の方向に大きく傾き、将軍上洛の決定とともにそれに先だって将軍後見職となった徳川慶喜が文久2年12月、江戸を出立して京に赴いた。佐竹義堯も翌文久3年1月に上洛することとなり、それに先だち宇都宮典綱が上京、新たに物頭格本学頭取に就任した銕胤も文久2年11月27日、上洛を命じられた。同行したのは角田忠行、野城清太夫、小林与一郎であった。父に引き続き長男延太郎(延胤)、次男三木鉄弥も上京、加えて平田父子の上京と国事斡旋を好機だとして、門人の長老格であった権田直助をはじめとする平田国学の徒が陸続と京都に参集して奉勅攘夷の運動を下からさらに促そうとした。これにより、当時の京都はさながら平田門人総結集の様相を呈した。こうした矢先におこったのが、平田門人たちが直接・間接にかかわった文久3年2月22日(1863年4月9日)夜の足利三代木像梟首事件(等持院事件)であった。 銕胤自身は藩命を帯びての上京であり、この事件にはまったく関与していなかったが、心情的には門弟たちの行為は是とされるべきと考えていたものと思われ、関係者を一斉捕縛・殺害した京都守護職松平容保を藩主とする会津藩に対する備前国岡山藩の厳重抗議文、また、草莽諸士による関係者赦免要求の諸建白が収載されている。さらに、江戸に戻った銕胤に対し京都から発信された書翰も収載されており、そこには「報国赤心の有志、一人たりとも外夷切迫の折柄、非命に相果候」ことを悼み、大赦が出たにもかかわらず「例の如く」幕吏がこれをかかえこんで知らせないため、下には達せず、混乱が収まらないことへの憂慮が記されている。 文久3年4月13日の幕府刺客による清河八郎の暗殺、翌4月14日の浪士組の責任者高橋泥舟・山岡鉄舟・松岡万らの罷免、それにつづく浪士組の改組縮小による新徴組の発足などについても詳細に調査され、克明に報告されている。 4月20日、攘夷決行期限が「文久3年5月10日」と決したのに対し、対外戦争の回避と徳川家茂の将軍職辞退を主張した三奉行上書が5月6日付で提出された。これに対して幕臣某による箇条書きの体裁をとった論駁書もただちに出されたが、銕胤はこれらをいずれも素早く入手しており、幕府内部事情についても相当通じていたことがうかがわれる。論駁書は、山岡鉄舟ら幕府内の尊王攘夷派の主張に近く、当時幕府が抱え込まざるをえなかった矛盾を踏まえたうえでの立論がなされていた。さらに、銕胤は幕府目付杉浦誠(正一郎)の5月付建白、すなわち、幕府は今までのような曖昧で場当たり的な処置では挽回が難しく、いったん拝命した「攘夷」を断固奉戴して国威更張の方面に奮発しなければ活路はないとする主張も記録にのこしている。 攘夷決行予定日の5月10日、幕府の横浜港での姿勢はいかなるものであったかについては、同地に詰めていた草莽の志士たちの翌日付急報で押さえ、同日以降の馬関海峡封鎖と外国船に対する砲撃の一切については、砲撃に加わった庚申丸乗員の手記(『攘夷記』)を入手し、さらに京都の情勢については京都発信書翰より、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)も含めて把握していた。こうしたなか、5月中旬以降6月にかけて、幕府が奉勅攘夷を実行する意思も力もないことがしだいに明らかになっていく。平田延胤は6月中旬、藩主佐竹義堯はいちはやく朝旨を重んじて討幕の挙に出よという趣旨の「飛龍回天の建白」を藩当局に上奏している。 8月、公武合体派によって三条実美ら尊王攘夷派公家や長州藩の勢力が京都より追い出される八月十八日の政変が起こり、その結果、全面的攘夷から横浜鎖港へと対外方針は変更されたものの、久保田藩での平田派の地位や平田父子からの情報提供の仕組みには特段の影響はなかった。長州一藩が排除されたとはいえ、朝廷が諸大名に直接指示する朝廷優位の体制はなおも継続していた。こうしたなか銕胤は、薩英戦争、8月18日のクーデタ、8月16日の長門国小郡における幕府問責使中根市之丞の殺害事件、8月から9月にかけて大和国で起こった尊攘派初の対幕府武力蜂起である天誅組の変(大和五条の変)、10月に但馬国で平野国臣らが起こした生野の変などといった諸情報を伝えているが、幕府に対しては一貫して批判的である。『風雲秘密探偵録』には、8月18日の政変は「暴藩」会津の謀略によるものであるとの見解を示した書翰、政変後の京都が「市中にても長州様を悉(ことごと)く慕(した)ひ申候」として流行歌も添えて洛内での長州びいきを伝える書翰(いずれも京都発)が収録されている。 一方、政変後孤立して苦境に陥った長州藩は、文久3年末から翌年にかけて、藩主直書をたずさえた使者を各藩に派遣し、自藩の正当性を主張させていたが、久保田藩においては、その仲介役として平田延胤が選ばれ、長州藩内の平田門人の紹介で長州藩士有福半右衛門が延胤と面会、つづいて作間克三郎、さらに上役の木梨彦右衛門が延胤と面会し、久保田城下に赴き藩主に主君直書を渡すことを依頼した。 元治元年(1864年)に入ってからの情報は、上総国における真忠組の蜂起、上野国赤城山への浪士結集の流言、長州征討か攘夷かをめぐっての京都政局の動揺、水戸天狗党による筑波山挙兵(天狗党の乱)の経緯、京都市中の張り紙、天誅組浪士の処刑、水戸藩内の党争など多岐にわたるが、この時期は、京都守衛一橋慶喜に対する高い期待と評価が前面に押し出された筆致となっていることが特徴的である。筑波勢の増大、会津藩の京内での孤立、横浜でのコレラ流行、長州勢の大量上京、それにまつわる風聞などを記したのを最後に探索書はいったん途絶える。 これは、元治元年7月19日(1864年8月20日)に勃発した禁門の変において長州軍が完敗し、8月上旬には下関で四国艦隊砲撃があって在国勢力も壊滅的状況に陥ったことによって、中央政治も急展開の様相を呈したからであった。長州藩は「朝敵」となって征討の対象となり、筑波勢に対する幕府・諸藩連合軍の攻撃も激しさを加えた。久保田藩としても、とりあえずは幕府の方針を注視しておればよいという情勢になったのである。それを受けて国許の秋田では、吉田松陰の知己でもあり、平田派を支持していた勤王派の渋江厚光が国家老の職を罷免された(表向きは辞任)。 久保田藩では、朝廷より元治元年冬の京都警衛を命じられており、藩内の勤王派は速やかに京に向かうことを要求していたが、一方では7月下旬以降、幕府から筑波勢の暴行に対処するために警衛人数を引き連れて江戸に出府せよとも命じられていて、その対応に苦慮していた。藩主佐竹義堯はまずは江戸に出て、様子をみて上京許可を得ることとしたが、幕府は義堯に上京許可をあたえなかった。江戸滞府中、再び幕府の武威が確立されていくことを感じ取った義堯は藩内の尊王派を一斉に処罰した。平田延胤は献上方罷免・遠慮処分に処せられ、片岡鎌之進、鈴木三郎太郎、青柳忠治、遠藤源生、富岡寅之助、豊間源之進、井口糺は上京供奉罷免のうえ国許への帰還を命じられ、小川亀雄、髙瀨権平、村瀬佐一郎、布施銀平らはそれぞれの役を免じられている。久保田藩内には、それでもなお平田派に対する警戒心を隠さない佐幕・保守の人も少なくなかったが、元治元年から翌年にかけて全国諸藩に共通して吹き荒れた政治反動の嵐のなかでは、むしろ久保田藩の処罰は他藩にくらべて穏やかなものであった。
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