文久3年から元治元年までとは? わかりやすく解説

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文久3年から元治元年まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:18 UTC 版)

風雲秘密探偵録」の記事における「文久3年から元治元年まで」の解説

大原三条勅使下向島津久光主導する文久の改革経て時流奉勅攘夷方向大きく傾き将軍上洛決定とともにそれに先だって将軍後見職となった徳川慶喜文久2年12月江戸出立して京に赴いた佐竹義堯も翌文久3年1月上洛することとなり、それに先だち宇都宮典綱が上京新たに物頭本学頭取就任した銕胤も文久2年11月27日上洛命じられた。同行したのは角田忠行野城太夫小林与一郎であった。父に引き続き長男太郎(延胤)、次男三木弥も上京加えて平田父子の上京と国事斡旋好機だとして、門人長老であった権田直助はじめとする平田国学の徒が陸続と京都参集し奉勅攘夷運動を下からさらに促そうとした。これにより、当時京都さながら平田門人総結集の様相呈したこうした矢先おこったのが、平田門人たちが直接・間接にかかわった文久3年2月22日1863年4月9日)夜の足利三代木像梟首事件等持院事件であった。 銕胤自身藩命帯びての上京であり、この事件はまった関与していなかったが、心情的に門弟たちの行為は是とされるべきと考えていたもの思われ関係者一斉捕縛殺害した京都守護職松平容保藩主とする会津藩対す備前国岡山藩の厳重抗議文、また、草莽諸士による関係者赦免要求の諸建白収載されている。さらに、江戸戻った銕胤に対し京都から発信され書翰収載されており、そこには「報国赤心有志一人たりとも外夷切迫折柄非命に相果候」ことを悼み大赦出たにもかかわらず例の如く幕吏がこれをかかえこんで知らせないため、下には達せず混乱収まらないことへの憂慮記されている。 文久3年4月13日幕府刺客による清河八郎暗殺、翌4月14日浪士組責任者高橋泥舟山岡鉄舟松岡万らの罷免、それにつづく浪士組改組縮小による新徴組発足などについても詳細に調査され克明に報告されている。 4月20日攘夷決行期限が「文久3年5月10日」と決したのに対し対外戦争回避徳川家茂将軍職辞退主張した三奉行上書5月6日付で提出された。これに対して幕臣某による箇条書き体裁をとった論駁書もただちに出されたが、銕胤はこれらをいずれも素早く入手しており、幕府内部事情についても相当通じていたことがうかがわれる論駁書は、山岡鉄舟幕府内の尊王攘夷派主張近く当時幕府抱え込まざるをえなかった矛盾踏まえたうえでの立論なされていた。さらに、銕胤は幕府目付杉浦誠正一郎)の5月建白、すなわち、幕府今までのような曖昧場当たり的処置では挽回難しく、いったん拝命した「攘夷」を断固奉戴して国威更張方面奮発しなければ活路はないとする主張記録のこしている。 攘夷決行予定日5月10日幕府横浜港での姿勢いかなるものであったかについては、同地詰めていた草莽志士たちの翌日急報押さえ同日以降馬関海峡封鎖外国船に対す砲撃一切については、砲撃加わった庚申丸乗員の手記(『攘夷記』)を入手し、さらに京都情勢については京都発信書翰より、5月20日朔平門外の変姉小路公知暗殺事件)も含めて把握していた。こうしたなか、5月中旬以降6月にかけて、幕府奉勅攘夷実行する意思も力もないことがしだいに明らかになっていく。平田延胤6月中旬藩主佐竹義堯いちはやく朝旨重んじて討幕の挙に出よという趣旨の「飛龍回天建白」を藩当局上奏している。 8月公武合体派によって三条実美尊王攘夷派公家長州藩勢力京都より追い出される八月十八日の政変起こりその結果全面的攘夷から横浜鎖港へと対外方針変更されたものの、久保田藩での平田派地位平田父子からの情報提供仕組みには特段影響はなかった。長州一藩が排除されとはいえ朝廷諸大名直接指示する朝廷優位体制はなおも継続していた。こうしたなか銕胤は、薩英戦争8月18日クーデタ8月16日長門国小郡における幕府問責使中根市之丞殺害事件8月から9月にかけて大和国起こった尊攘派初の対幕府武力蜂起である天誅組の変大和五条の変)、10月但馬国平野国臣らが起こした生野の変などといった諸情報伝えているが、幕府に対して一貫して批判的である。『風雲秘密探偵録』には、8月18日の政変は「暴藩」会津謀略よるものであるとの見解示した書翰政変後の京都が「市中にても長州様を悉(ことごと)く慕(した)ひ申候」として流行歌添えて洛内での長州びいきを伝え書翰いずれも京都発)が収録されている。 一方政変孤立して苦境陥った長州藩は、文久3年末から翌年にかけて、藩主直書たずさえ使者各藩派遣し、自藩の正当性主張させていたが、久保田藩においては、その仲介役として平田延胤選ばれ長州藩内の平田門人紹介長州藩士有福右衛門が延胤と面会つづいて作間三郎、さらに上役木梨右衛門が延胤と面会し久保田城下に赴き藩主主君直書を渡すことを依頼した元治元年1864年)に入ってからの情報は、上総国における真忠組蜂起上野国赤城山への浪士結集流言長州征討攘夷かをめぐって京都政局動揺水戸天狗党による筑波山挙兵天狗党の乱)の経緯京都市中の張り紙天誅組浪士処刑水戸藩内の党争など多岐にわたるが、この時期は、京都守衛一橋慶喜対する高い期待評価前面押し出され筆致となっていることが特徴的である。筑波勢の増大会津藩の京内での孤立横浜でのコレラ流行長州勢の大量上京、それにまつわる風聞などを記したのを最後に探索書はいったん途絶える。 これは、元治元年7月19日1864年8月20日)に勃発した禁門の変において長州軍が完敗し8月上旬には下関四国艦隊砲撃があって在国勢力壊滅的状況陥ったことによって、中央政治急展開様相呈したからであった長州藩は「朝敵となって征討対象となり、筑波勢に対す幕府諸藩連合軍の攻撃激しさ加えた久保田藩としても、とりあえずは幕府方針注視しておればよいという情勢になったのである。それを受けて国許秋田では、吉田松陰知己でもあり、平田派支持していた勤王派の渋江厚光国家老の職を罷免された(表向き辞任)。 久保田藩では、朝廷より元治元年冬の京都警衛命じられており、藩内の勤王派は速やかに京に向かうことを要求していたが、一方で7月下旬以降幕府から筑波勢の暴行対処するために警衛人数引き連れて江戸出府せよとも命じられていて、その対応に苦慮していた。藩主佐竹義堯はまずは江戸出て様子をみて上京許可を得ることとしたが、幕府義堯上京許可をあたえなかった。江戸府中、再び幕府武威確立されていくことを感じ取った義堯は藩内の尊王派一斉に処罰した平田延胤献上罷免遠慮処分処せられ、片岡鎌之進、鈴木三郎太郎青柳忠治遠藤源生富岡寅之助、豊間源之進、井口糺は上京供奉罷免のうえ国許への帰還命じられ小川亀雄、髙瀨権平村瀬佐一郎布施銀平らはそれぞれの役を免じられている。久保田藩内には、それでもなお平田派対す警戒心隠さない佐幕保守の人も少なくなかったが、元治元年から翌年にかけて全国諸藩共通して吹き荒れた政治反動の嵐のなかでは、むしろ久保田藩処罰は他藩にくらべて穏やかなものであった

※この「文久3年から元治元年まで」の解説は、「風雲秘密探偵録」の解説の一部です。
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