筑波山挙兵
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水戸藩士で、幕末、横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)の檄に呼応し、水戸町奉行田丸稲之衛門を主将とし、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結し62人の同志たちと共に挙兵。(天狗党の乱) 中村ら筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮へ攘夷決行祈願の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜を万国に輝き候様致し度…」と記すなど、表面的には幕府を敬い、攘夷の決行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であるとしていた。そのため、徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠し、攘夷を決行する事を計画し、元治元年4月3日(1864年5月8日)、下野国日光(栃木県日光市)まで進軍したが、日光奉行・小倉正義の通報により近隣各藩兵が出陣したため、中村らは日光から太平山(栃木県栃木市)へ移動。同地に5月末まで駐留した。のち乾退助は中村勇吉らから、水戸学における尊皇思想の影響を受け研鑽した。水戸浪士が東照宮を敬う姿は、戊辰戦争の際、退助が敬崇を尽くした参詣を行い、戦禍から守った行動にも貫かれている。
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筑波山挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)
幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。小四郎は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。 挙兵の報を聞いた藩主徳川慶篤は、田丸の兄である山国兵部に説得を命じたが、山国も逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団は筑波山で挙兵したことから筑波勢・波山勢などと称された。筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜万国に輝き候様致し度」と記すなど、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であると称していた。 藤田らの行動は藩政府の方針に反する行為ではあったものの、武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には慶喜や在京の藩士と密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼する。幕閣側も宸翰が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために小笠原長行の復帰を求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった。
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