筑波山挙兵とは? わかりやすく解説

筑波山挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:58 UTC 版)

中村勇吉」の記事における「筑波山挙兵」の解説

水戸藩士で、幕末横浜鎖港一向に実行されない事態憤った藤田小四郎藤田東湖の四男)の呼応し水戸町奉行田丸稲之衛門主将とし、元治元年3月27日1864年5月2日)、筑波山集結し62人の同志たちと共に挙兵。(天狗党の乱中村筑波勢は急進的な尊王攘夷思想有していたが、日光東照宮攘夷決行祈願檄文に「上は天朝報じ奉り、下は幕府補翼し、神州威稜万国輝き候様致し度…」と記すなど、表面的に幕府敬い攘夷決行もあくまで東照宮徳川家康)の遺訓であるとしていた。そのため、徳川家康祀った聖地ある日東照宮占拠し攘夷決行する事を計画し元治元年4月3日1864年5月8日)、下野国日光栃木県日光市)まで進軍したが、日光奉行小倉正義通報により近隣各藩兵が出陣したため、中村らは日光から太平山栃木県栃木市)へ移動同地5月末まで駐留した。のち乾退助中村勇吉らから、水戸学における尊皇思想影響を受け研鑽した。水戸浪士東照宮を敬う姿は、戊辰戦争の際、退助が敬崇を尽くした参詣行い戦禍から守った行動にも貫かれている。

※この「筑波山挙兵」の解説は、「中村勇吉」の解説の一部です。
「筑波山挙兵」を含む「中村勇吉」の記事については、「中村勇吉」の概要を参照ください。


筑波山挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「筑波山挙兵」の解説

幕閣内の対立などから横浜鎖港一向に実行されない事態憤った藤田小四郎藤田東湖の四男)は、幕府即時鎖港要求するため、非常手段をとることを決意した小四郎北関東各地遊説して軍用金集め元治元年3月27日1864年5月2日)、筑波山集結した62人の同志たちと共に挙兵した。小四郎23歳若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門説いて主将とした。 挙兵の報を聞いた藩主徳川慶篤は、田丸の兄である山国兵部説得命じたが、山国逆に諭されて一派に加わることになる。その後各地から続々浪士農民らが集結し数日後には150人、その後最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団筑波山挙兵したことから筑波勢・波山勢などと称された。筑波勢は急進的な尊王攘夷思想有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に「上は天朝報じ奉り、下は幕府補翼し、神州威稜万国輝き候様致し度」と記すなど、表面的には敬幕を掲げ攘夷実行もあくまで東照宮徳川家康)の遺訓であると称していた。 藤田らの行動藩政府の方針反す行為ではあったものの、武田耕雲斎ら藩執行部筑波勢の圧力背景幕政への介入画策し4月には慶喜在京藩士密に連絡をとって朝廷への周旋依頼する幕閣側も宸翰が「無謀攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派圧力斥けようと図り朝廷対す周旋強化する一方で筑波討伐事態沈静化のために小笠原長行復帰求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった。

※この「筑波山挙兵」の解説は、「天狗党の乱」の解説の一部です。
「筑波山挙兵」を含む「天狗党の乱」の記事については、「天狗党の乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「筑波山挙兵」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「筑波山挙兵」の関連用語

筑波山挙兵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



筑波山挙兵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中村勇吉 (改訂履歴)、天狗党の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS