水戸保守派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:59 UTC 版)
水戸藩士・市川弘教(1000石)の二男として生まれる。弘教の長男・弘業の死去後の1843年に家督を相続。小納戸頭や小姓頭、馬廻頭、大寄合頭等の要職を歴任し、門閥派(諸生党)の重鎮として改革派(天狗党)[要検証 – ノート]と対立した。1860年、尊皇攘夷的な改革路線を推進した藩主徳川斉昭が死去すると、若年の藩主徳川慶篤のもと藩論は幾つにも分断され、藩内抗争は激しさを増した。その中で市川ら保守派は、尊攘派の武田耕雲斎らの率いる天狗党と鋭く対立した。 1864年、天狗党の筑波山挙兵にあたり、市川らは幕府の援助を受けて乱の鎮定に努め、天狗党の敗走後は執政として自ら藩の実権を掌握した。一躍、家禄3000石に加増されるなど独裁的な栄華を極め、天狗党関係者を徹底的に処罰した。
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