文久から維新期
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桜田門外の変の襲撃者らが幕吏から大方処分されるのを見届けた薩摩藩側では、2年後の文久2年(1862年)3月16日に島津久光が藩兵を率いて鹿児島城下を発し、4月13日に入京した。さらに久光は勅使・大原重徳を擁して6月7日に薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求した。これを受けて幕府は御三卿・一橋慶喜を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命、春嶽の主導で直弼政権の清算を図った(文久の改革)。末期の直弼政権を支え、直弼の死後に幕閣をまとめた老中・安藤信正は、同年初めの坂下門外の変では負傷で済んでいたが、この改革で久世広周と共に老中を罷免された。また、彦根藩は幕府より石高を30万石から20万石に減らされ、さらに5万石の預地も没収され、藩主の京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保が代わりに京都守護職へ充てられた。これに先立って、彦根藩は直弼の腹心だった彦根藩士・長野主膳と同藩士・宇津木景福を切腹より重い重罰であった斬首・打ち捨てに処したが、結局のところ減封を免れることはできなかった。 慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐で、彦根藩士510名は赤備えを着て幕府方で出陣した。彼らは鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり長州方の遊撃隊から狙撃され、大敗を喫した。慶応4年(1868年)1月3日から6日、鳥羽・伏見の戦いでは譜代筆頭として、藩主・井伊直憲率いる彦根藩は幕府軍の先鋒を務めていたが、翻って新政府軍に付いた。彦根藩はその後も薩摩藩兵と共に東寺や大津を守備するなど、倒幕の姿勢を示した。
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