文久から維新期とは? わかりやすく解説

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文久から維新期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:02 UTC 版)

桜田門外の変」の記事における「文久から維新期」の解説

桜田門外の変襲撃者らが幕吏から大方処分されるのを見届けた薩摩藩側では、2年後文久2年1862年3月16日島津久光が藩兵を率いて鹿児島城下を発し4月13日入京した。さらに久光勅使大原重徳擁して6月7日薩摩藩と共に江戸へ入り幕政刷新要求した。これを受けて幕府御三卿一橋慶喜将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽政事総裁職任命、春嶽の主導直弼政権清算図った文久の改革)。末期直弼政権支え直弼死後幕閣をまとめた老中安藤信正は、同年初め坂下門外の変では負傷済んでいたが、この改革久世広周と共に老中罷免された。また、彦根藩幕府より石高30万石から20万石減らされ、さらに5万石の預地没収され藩主京都守護家職剥奪され会津藩主・松平容保代わりに京都守護職充てられた。これに先立って彦根藩直弼腹心だった彦根藩士・長主膳と同藩士宇津木景福切腹より重い重罰であった斬首打ち捨て処したが、結局のところ減封免れることはできなかった。 慶応2年1866年6月7日第二次長州征伐で、彦根藩510名は赤備え着て幕府方出陣した。彼らは鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり長州方の遊撃隊から狙撃され大敗喫した慶応4年1868年1月3日から6日鳥羽・伏見の戦いでは譜代筆頭として、藩主井伊直憲率い彦根藩幕府軍先鋒務めていたが、翻って新政府軍付いた彦根藩その後薩摩藩と共に東寺大津守備するなど、倒幕姿勢示した

※この「文久から維新期」の解説は、「桜田門外の変」の解説の一部です。
「文久から維新期」を含む「桜田門外の変」の記事については、「桜田門外の変」の概要を参照ください。

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