文久の国内政治
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一時は大老・井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。 これより先に1860年(安政7年)1月には勝海舟らが咸臨丸で米国に向かっている。1862年(文久2年)1月15日、老中・安藤信正が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する坂下門外の変が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日、幕府は徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日に松平慶永を政事総裁職、閏8月1日に松平容保を京都守護職に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士などにより1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の東禅寺事件が起こっている。薩摩藩では、島津斉彬が没したあと、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清(寺田屋騒動)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。1862年(文久2年)、島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。 1862年(文久2年)閏8月、幕府参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした。同年9月7日、明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。公武合体の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した。 尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った。その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を攘夷実行の日とすることを約束した。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は周布政之助で、攘夷のあとには各国との交流・交易の日が必然的にやってくることを見越し、西洋事情に通じておかねば日本の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである。 これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって1863年(文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。八月十八日の政変である。翌日、三条実美らの七卿落ち。長州藩主・毛利慶親の世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。1864年(元治元年)6月5日、新撰組が池田屋を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて天王山に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が天龍寺に入った。7月19日、長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩・桑名藩)と交戦する(禁門の変)。同年11月、長州藩は禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。
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