文久の国内政治とは? わかりやすく解説

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文久の国内政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:30 UTC 版)

江戸時代」の記事における「文久の国内政治」の解説

一時大老井伊直弼強行弾圧路線安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年安政7年3月3日桜田門外の変後、将軍後継問題幕府揺れる間に事態急速に変化する。 これより先に1860年安政7年1月には勝海舟らが咸臨丸米国向かっている。1862年文久2年1月15日老中安藤信正水戸浪士ら6人に襲われ負傷する坂下門外の変起こっている。同年2月11日将軍・家茂と和宮との婚儀江戸城盛大に挙行される。同年7月6日幕府徳川慶喜将軍後見職とし、同月9日松平慶永政事総裁職、閏8月1日松平容保京都守護職就ける先の7月には諸藩艦船購入許している。一方開国開市開港が続くなかで、浪士などにより1861年文久元年)と翌年に、第1次2次東禅寺事件起こっている。薩摩藩では、島津斉彬没したあと、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光長州藩牽制すべく公武合体運動展開し同年4月内の攘夷派を粛清寺田屋騒動)し、幕府改革要求した文久の改革)。1862年文久2年)、島津久光江戸から薩摩への帰路生麦事件引き起こし翌年薩英戦争攘夷無謀さを悟ることになる。 1862年文久2年)閏8月幕府参勤交代制度を緩和し3年目ごとに1回100日限り在府とし、自国警衛強化させることを目的とした。同年9月7日明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。公武合体強化策である。同年12月幕府兵制度を制定した尊皇攘夷派公武合体派藩政主導権争っていた長州藩では、尊王攘夷派主導権を握るようになり、京都公家結託し幕府攘夷実行迫ったその結果幕府1863年文久3年5月10日攘夷実行の日とすることを約束した長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。ところが長州藩では、外国砲撃翌日井上聞多野村弥吉遠藤謹助伊藤俊輔山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日横浜からイギリス向けて出港させている。この計画指導者周布政之助で、攘夷あとには各国との交流交易の日が必然的にやってくることを見越し西洋事情通じておかねば日本一大不利益考えて、彼らを渡航させたのである。 これらの攘夷実行に対して京都では会津薩摩藩らの勢力によって1863年文久3年8月18日尊王攘夷派公卿京都から排除した八月十八日の政変である。翌日三条実美らの七卿落ち長州藩主毛利慶親世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評京都では広まっていた。その目的中川宮五摂家筆頭近衛家会津藩薩摩藩などの排除であった1864年元治元年6月5日新撰組池田屋襲撃した6月24日久坂玄瑞が藩兵を率いて天王山陣取り27日には来島又兵衛率いる藩兵が天龍寺入った7月19日長州藩京都諸門で幕軍(薩摩藩会津藩桑名藩)と交戦する禁門の変)。同年11月長州藩禁門の変責任者3家老自刃命令する

※この「文久の国内政治」の解説は、「江戸時代」の解説の一部です。
「文久の国内政治」を含む「江戸時代」の記事については、「江戸時代」の概要を参照ください。

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