文久の軍制改革とは? わかりやすく解説

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文久の軍制改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:54 UTC 版)

幕府陸軍」の記事における「文久の軍制改革」の解説

桜田門外の変直弼暗殺された後の万延元年1860年)に、文久の改革一環として本格的な西洋式軍隊である「陸軍」の創設がされた。陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行を置き、歩兵騎兵砲兵三兵編制導入した。ただし、こうして誕生した陸軍はあくまで従来軍制並立する組織であった歩兵は、横隊などを組む戦列歩兵該当する歩兵」と、軽歩兵該当する撒兵さっぺい)」に分類された。うち歩兵隊は、旗本から禄高に応じて供出させた兵賦(へいふ)と称する人員から構成され同年12月には、幕府大量に必要になる兵員確保の為、旗本に対して兵賦令を布告した兵賦令の内容は、500石以下の旗本金納500石以上の旗本に対して課され軍役人員半数とする代わりに兵賦知行地から供出するものとされ、兵賦知行500石で1人1000石で3人、3000石で10人の人員供出割り当てられたが、当面はこの半数良いとされた。 兵賦年齢17歳から45歳までとされ、年季5年身分最下層ながら、武士準ずるものとされ、脇差帯刀許された。なお入営後の功績次第では正式に幕臣登用されるものとされた。歩兵隊兵賦江戸城西の丸下、大手前小川町三番町設けられ屯所入営し装備衣服糧食などは幕府負担し給与だけは各旗本個別支給する方式取られ給金は年10両が限度とされたが、人件費高騰通貨膨張などの為、実際は年15もしくはそれ以上給金支払われた。その後元治元年1864年7月までに関東諸国から、10000人ほどが徴集された。 他方撒兵隊は御目見以下小普請組などの御家人から構成され慶応2年1866年)までは御持小筒組と称した騎兵与力旗本である御目見以上小普請組から、砲兵同心から編成された。各部隊士官旗本その子弟をあてることとした。 この取組みにより編成され陸軍は、天狗党の乱長州征討実戦投入された。天狗党の乱では、実戦経験の不足の為に奇襲攻撃受けたりして翻弄された。第二次長州征討では芸州口と小倉口に配置され芸州口の部隊善戦し長州勢を押し返したものの、小倉口の部隊小倉藩軍の苦戦拱手傍観するのみで為すところがなく、戦力発揮することはなかった。

※この「文久の軍制改革」の解説は、「幕府陸軍」の解説の一部です。
「文久の軍制改革」を含む「幕府陸軍」の記事については、「幕府陸軍」の概要を参照ください。

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