「攘夷」を巡る対立構造とは? わかりやすく解説

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「攘夷」を巡る対立構造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:13 UTC 版)

朔平門外の変」の記事における「「攘夷」を巡る対立構造」の解説

この時期政治状況は、しばしば「尊王攘夷派」と「公武合体派」との対立構造語られることが多いが、実際には「尊王」対「佐幕」や「攘夷」対「開国」などと単純に対極化できる性質のものではなかった。いわゆる尊王自体朝廷からの政権委任支配正当性とする幕府にとっても尊重すべき概念であり、国防意識という意味においての攘夷概念は、当時主要な政治勢力いずれも持っていた大前提であった黒船来航から10年近く経過したこの時期には、すでに攘夷論そのもの変容ないし多様化していた。異人斬りに代表される感情的な攘夷論や、その逆に積極的に国を開いて自由交易を行うべきであるとする単純開国論存在したが、この文久期の攘夷政治運動としては、幕府結んだ通商条約不可としてこれを即刻破棄し外国船を打ち払う破約攘夷論」(即今破約攘夷)と、通商条約自体容認しないが、外国船が襲撃してきた場合のみに打ち払うという攘夷実行慎重派2つ分かれていた。孝明天皇自身薩摩藩越前藩などの公武合体派暗殺される直前姉小路影響与えた勝海舟などは後者属しているが、薩摩藩のように通商条約不容認する立場立たないものもおり、勝が唱えた海外進出のため当面国力高めるべきである「大攘夷」という思想もこのグループ含まれ破約攘夷派ほど思想的統一されたものではなかった。 前年まで公武合体的・大攘夷的な構想である航海遠略策推進しながら、その主唱者である長井雅楽失脚を境に大きく路線変更した長州藩がこの時期藩是とした破約攘夷論は、通商条約締結主体である幕府外交代表として正統性否定するものであり、彼らにとっては幕府権威失墜させる有力な政治手段にもなり得た一方公武合体派急激な体制の変化を望まず、大政委任論に従って国政任され幕府朝廷緊密に連携することによって、非常事態乗り越えようとしていた。そんな中、率兵上京という実力行使公武合体幕政改革(→文久の改革)の実を挙げた島津久光薩摩藩主の父)率い薩摩藩と、長州藩との政局主導権を巡る暗黙対立尖鋭化していた。姉小路公知は、前者属す長州藩やそれに同調する土佐藩一部勢力と結び、三条実美らと江戸へ下って将軍家茂の上洛強要するなど、破約攘夷派の中核として知られるようになっていく。 文久2年1862年12月には朝廷国事掛が設置され三条姉小路らと親幕派公家との間の抗争本格化する。翌年2月13日には公武合体派九条尚忠(前関白)・久我建通(前内大臣)・岩倉具視らが失脚し同日設置され国事参政寄人人事三条姉小路破約攘夷派が独占し朝政牛耳りつつあった。

※この「「攘夷」を巡る対立構造」の解説は、「朔平門外の変」の解説の一部です。
「「攘夷」を巡る対立構造」を含む「朔平門外の変」の記事については、「朔平門外の変」の概要を参照ください。

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