「攘夷」を巡る対立構造
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「朔平門外の変」の記事における「「攘夷」を巡る対立構造」の解説
この時期の政治状況は、しばしば「尊王攘夷派」と「公武合体派」との対立構造で語られることが多いが、実際には「尊王」対「佐幕」や「攘夷」対「開国」などと単純に対極化できる性質のものではなかった。いわゆる尊王自体は朝廷からの政権委任を支配の正当性とする幕府にとっても尊重すべき概念であり、国防意識という意味においての攘夷概念は、当時の主要な政治勢力のいずれもが持っていた大前提であった。 黒船来航から10年近く経過したこの時期には、すでに攘夷論そのものも変容ないし多様化していた。異人斬りに代表される感情的な攘夷論や、その逆に積極的に国を開いて自由交易を行うべきであるとする単純開国論も存在したが、この文久期の攘夷派政治運動としては、幕府の結んだ通商条約を不可としてこれを即刻破棄し、外国船を打ち払う「破約攘夷論」(即今破約攘夷)と、通商条約自体は容認しないが、外国船が襲撃してきた場合のみに打ち払うという攘夷実行慎重派の2つに分かれていた。孝明天皇自身や薩摩藩や越前藩などの公武合体派、暗殺される直前の姉小路に影響を与えた勝海舟などは後者に属しているが、薩摩藩のように通商条約を不容認する立場に立たないものもおり、勝が唱えた海外進出のため当面は国力を高めるべきである「大攘夷」という思想もこのグループに含まれ、破約攘夷派ほど思想的に統一されたものではなかった。 前年まで公武合体的・大攘夷的な構想である航海遠略策を推進しながら、その主唱者である長井雅楽の失脚を境に大きく路線を変更した長州藩がこの時期藩是とした破約攘夷論は、通商条約の締結主体である幕府の外交代表としての正統性を否定するものであり、彼らにとっては幕府の権威を失墜させる有力な政治手段にもなり得た。一方、公武合体派は急激な体制の変化を望まず、大政委任論に従って国政を任された幕府が朝廷と緊密に連携することによって、非常事態を乗り越えようとしていた。そんな中、率兵上京という実力行使で公武合体・幕政改革(→文久の改革)の実を挙げた島津久光(薩摩藩主の父)率いる薩摩藩と、長州藩との政局の主導権を巡る暗黙の対立は尖鋭化していた。姉小路公知は、前者に属する長州藩やそれに同調する土佐藩の一部勢力と結び、三条実美らと江戸へ下って将軍家茂の上洛を強要するなど、破約攘夷派の中核として知られるようになっていく。 文久2年(1862年)12月には朝廷に国事掛が設置され、三条・姉小路らと親幕派公家との間の抗争が本格化する。翌年2月13日には公武合体派の九条尚忠(前関白)・久我建通(前内大臣)・岩倉具視らが失脚し、同日に設置された国事参政・寄人の人事は三条・姉小路ら破約攘夷派が独占し、朝政を牛耳りつつあった。
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