「撰時抄」
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日蓮は蒙古襲来を深く受け止め、その意味を思索した。その結論を記したのが文永の役の翌年建治元年(1275年)に著した「撰時抄」である。そこでは、蒙古襲来は日本国が法華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果であるとし、法華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜でことごとく処刑せよと述べている。 また、法華経に従わないばかりか真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので日本の滅亡はやむなしという悲観的な様子も伺える。一方で日蓮は、蒙古襲来などの戦乱の危機は日本に妙法が流布する契機となると述べている。 「撰時抄」で日蓮は「時」を中心に仏教史を論じ、末法は釈尊の「白法」が隠没し、それに代わって南無妙法蓮華経の「大白法」が流布する時代であるとする。すなわち日蓮の弘通する南無妙法蓮華経は従来の仏教を超越した教であることを明確にしている。 さらに「撰時抄」では仏教史の記述を通して念仏・禅・真言に対する破折がなされるだけでなく、それまで示されることのなかった台密破折が示されている。天台宗の密教化をおし進めた第3代天台座主の慈覚大師円仁(794年~864年)を五大院安然(841年~915年?)・恵心僧都源信(942年~1017年)と並べて「師子の身の中の三虫」と断ずる。東密(真言宗)だけでなく台密(天台宗)までも破折の対象にしているのが「撰時抄」の大きな特徴となっている。その上で、日蓮自身について「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」との自己規定が見られる。
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