「報恩抄」
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建治2年(1276年)6月、日蓮は自身の剃髪の師である道善房が死去したとの知らせに接し、道善房の恩に報ずるため、翌月「報恩抄」を完成させ、清澄寺時代の兄弟子である浄顕房・義浄房に宛てて同抄を送った。「報恩抄」の内容は、①報恩の倫理を示す、②真言密教の破折を軸に正像末の仏教史を概観する、③三大秘法の法理を示す、の3点に要約される。 本抄の冒頭では「夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほう(報)ず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」と報恩こそが倫理の根本であることを示し、末尾では「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」として日蓮が南無妙法蓮華経を弘通した功徳が故道善房に帰していくと述べられている。日蓮の実践が全て師・道善房への報恩・回向になっているとの趣旨である。 ②の真言密教破折については、「撰時抄」では触れられなかった第5代天台座主・智証大師円珍に対する破折や弘法大師空海の霊験の欺瞞性を暴露するなど、「撰時抄」よりもさらに踏み込んだ内容が見られ、日蓮による密教破折の集大成ともいうべきものになっている。 本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」の名目は身延入山直後に書かれた「法華取要抄」で示されていたが、「報恩抄」は三大秘法の内容を初めて説示した著述として重要な意義を持つ(ただし、本門の戒壇については名目を挙げるにとどめられている。戒壇の意義が説かれるのは弘安5年(1282年)の「三大秘法抄」まで待たねばならない)。 本門の本尊について「報恩抄」では「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」と説かれる。この文の解釈は各宗派で異なる。たとえば、日蓮宗ではこの文の「本門の教主釈尊」を文上寿量品に説かれる久遠実成の釈迦仏とするのに対し、日蓮正宗では釈迦仏を正法・像法時代の教主とする立場からこの「本門の教主釈尊」を本因妙の教主釈尊すなわち日蓮自身であるとする。 本門の題目については「三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」と説かれる。 身延において日蓮は膨大な書簡や法門書を執筆し、多くの文字曼荼羅本尊を図顕して門下を教導した(現存する日蓮真筆の曼荼羅本尊は120余幅を数える)。時には百人を超える門下が参集して法華経の講義を受けている。日蓮の法華経講義を、後に日興門流がまとめたのが「御義口伝」、日向門流がまとめたのが「御講聞書」とされている)。
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