身延入山とは? わかりやすく解説

身延入山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)

日蓮」の記事における「身延入山」の解説

文永11年1274年4月8日日蓮幕府要請受けて平頼綱会見した。頼綱は丁重な態度蒙古襲来時期について日蓮尋ねた日蓮年内襲来必然であると答えた。頼綱は寺院寄進することを条件日蓮蒙古調伏祈禱依頼したが、日蓮諸宗への帰依止めることが必要であるとしてその要請拒絶した伝えられる日蓮蒙古調伏祈禱真言師命ずるべきではないと頼綱を諫めたが、頼綱はそれを用いなかった。 「立正安国論」提出時、文永8年逮捕時、さらに今回3回にわたる諫暁幕府受け入れなかったことを確認した日蓮は、これ以上幕府働きかけるのは無意味考え鎌倉退去することにした。そこで、日興勧め従い5月17日日興折伏日蓮門下になっていた南部実長(波木井実長)が地頭として治め甲斐国身延現在の山梨県身延町)に入ったその間日蓮著述活動持続し身延到着後まもなく日蓮自身法華経観をまとめ、三大秘法名目挙げた法華取要抄」を完成させている。鎌倉退去の後も日蓮幕府にとって警戒対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。訪問客多く来ていたが、わずらわしい述べている。身延山中は大雪が降ることもあり、体調崩しがちになる。

※この「身延入山」の解説は、「日蓮」の解説の一部です。
「身延入山」を含む「日蓮」の記事については、「日蓮」の概要を参照ください。

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