身延入山
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文永11年(1274年)4月8日、日蓮は幕府の要請を受けて平頼綱と会見した。頼綱は丁重な態度で蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。日蓮は年内の襲来は必然であると答えた。頼綱は寺院を寄進することを条件に日蓮に蒙古調伏の祈禱を依頼したが、日蓮は諸宗への帰依を止めることが必要であるとしてその要請を拒絶したと伝えられる。日蓮は蒙古調伏の祈禱を真言師に命ずるべきではないと頼綱を諫めたが、頼綱はそれを用いなかった。 「立正安国論」提出時、文永8年の逮捕時、さらに今回と3回にわたる諫暁も幕府が受け入れなかったことを確認した日蓮は、これ以上幕府に働きかけるのは無意味と考え、鎌倉を退去することにした。そこで、日興の勧めに従い、5月17日、日興の折伏で日蓮門下になっていた南部実長(波木井実長)が地頭として治める甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。その間も日蓮は著述活動を持続し、身延到着後まもなく日蓮自身の法華経観をまとめ、三大秘法の名目を挙げた「法華取要抄」を完成させている。鎌倉退去の後も日蓮は幕府にとって警戒の対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。訪問客は多く来ていたが、わずらわしいと述べている。身延山中は大雪が降ることもあり、体調を崩しがちになる。
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