「支那人親しむ可し」を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 02:22 UTC 版)
「支那人親しむ可し」の記事における「「支那人親しむ可し」を巡る議論」の解説
田中浩は、著書『近代日本と自由主義(リベラリズム)』において福澤諭吉を近代日本における自由主義の系譜の一つに数えている。さらに、田中浩は第三章「『時事新報』時代の福沢諭吉」において『時事新報』の社説を時系列で取り上げて、福澤の外交戦略論の移り変わりを描写し、福澤が論説「支那人親しむ可し」において「日本人が、中国人を「チャンチャン」とか「豚尾漢」などと軽蔑している態度をやめよう」と言っていると紹介した。 安川寿之輔は、著書『福沢諭吉のアジア認識』において、田中浩の著書を「お粗末な研究」と批判して、福澤の状況的発言から勝手な結論を導いていると述べている。さらに『福沢諭吉のアジア認識』の資料編「福沢諭吉のアジア認識の軌跡」の379番において、論説「支那人親しむ可し」を嘘と断定している。この嘘という評価は「本資料についての説明」によると、「発言分類の一部に「嘘」と記載したのは、前後の福沢の発言とのかかわりで、誰の目にも明らかな虚偽と思える内容の場合である」としている。 平山洋は、著書『福沢諭吉の真実』の「第四章 一九三二年の福沢諭吉」で論説「支那人親しむ可し」を福澤の「例外的真筆」であると取り上げて、「日清戦争後にも、ごく稀にではあるが、今日の目から見ても非常にフェアな論説が収められている」例のひとつであると紹介した。さらに、田中浩の研究と安川寿之輔の批判を取り上げて、田中浩の研究は『時事新報』論説の福澤真筆のみを読んでいく限り「まさに正鵠を得ている」と評価している。そして安川寿之輔の批判に関しては、「安川は正真正銘ほんものの福沢の論説を嘘と見なしたわけである」と述べている。そして『時事新報』論説の多くが福澤真筆ではなく、弟子の石河幹明が執筆したものであり福澤の思想とは言えないと説明して、「『福沢諭吉のアジア認識』の資料編は「福沢ではない」ものを選び出すための格好の指標となる」と結論づけている。
※この「「支那人親しむ可し」を巡る議論」の解説は、「支那人親しむ可し」の解説の一部です。
「「支那人親しむ可し」を巡る議論」を含む「支那人親しむ可し」の記事については、「支那人親しむ可し」の概要を参照ください。
- 「支那人親しむ可し」を巡る議論のページへのリンク