「改良主義」論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 01:28 UTC 版)
一方、マルクス・レーニン主義者からは、資本主義を否定しないにもかかわらず革命や階級闘争は否定する点を指して階級の考え方が弱い、またロシア革命後には共産主義者から帝国主義への批判がないなどと非難され続けた。ローザ・ルクセンブルクらによって社会改良主義、改良主義は社会民主主義や修正主義と同じく中道寄りの穏健派に対して資本主義への妥協だと非難・除名する際に頻繁に用いられ、一種の蔑視語とされる傾向も生じた。 この20世紀を通じて繰り広げられた社会改良主義者や修正主義者、社会民主主義者や民主社会主義者など穏健な社会主義者と、マルクス・レーニン主義者をはじめ急進的な社会主義者・共産主義者との間での激しい論争や抗争によって、社会主義運動には大分裂がもたらされてしまった。たとえば日本では戦前の社会民衆党など無産政党は第二次世界大戦後、日本社会党としてまとまり、その中でも穏健な流れをくむ社会党右派の政治思想となったが、急進的な社会・共産主義者との対立の結果、社会党左派との左右社会党の分裂を招いた。両派は1955年いったん統一したが(55年体制)対立は収まらず、1960年には右派のかなりの部分が民社党として独立してしまった。民社党の労使協調の路線が企業擁護の労働組合(御用組合)の思想として非難されるなどの結果、これに対抗するため強烈な反共主義を伴うこととなり、民社党や社会改良主義への「右寄り」「タカ派」というレッテル貼りの根拠となってしまった。 また社会党に残った側でもイタリア共産党を模範とした構造改革について、社会主義協会などの党内左派から改良主義、修正主義、日和見主義であるとされ激しい党内抗争が繰り広げられた。その結果、左派が勝利を収めたが、冷戦末期になると揺り戻しがあり、再び社会党右派などの社会改良主義が優位になった。しかし、反対する左派との内部対立は続いた。
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