長州と薩摩の公武周旋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
「八月十八日の政変」の記事における「長州と薩摩の公武周旋」の解説
桜田門外の変の後、幕府は公武関係の修復を図り、文久2年(1862年)2月に孝明天皇の妹和宮親子内親王を将軍徳川家茂の正室に迎えた。そして幕府は降嫁と引き換えに攘夷(ここでは日米修好通商条約などを破棄して和親条約に引き戻すこと)を朝廷に約束した。攘夷の実行まで7〜8年から10年の猶予を設ける約束だったが、本音は天皇が攘夷の不可能を認識して開国に転ずるのを期待した時間稼ぎであった。こうした対外方針についての動向をめぐって長州藩と薩摩藩が政局を主導しようと争い、翌年の政変につながっていく。 この時期、長州は長井雅楽の開国論(航海遠略策)をもって朝幕間の周旋に乗り出し、幕府も歓迎していた。だが、文久2年3月に京都に上った長井の入説は不調に終わる。同じ頃、薩摩藩主島津忠義(茂久)の実父で後見人の島津久光が藩兵1千を率いて進発し、これを機に攘夷・討幕・王政復古を目指す過激な浪人らが京都に集まり、尊王攘夷の気運が盛り上がったためである。先代の薩摩藩主島津斉彬(久光の兄)はかつて一橋派の有志大名らとともに幕府の体制改革、雄藩の国政参加を実現して開国路線を進めようとしたが、安政の大獄前に死去した。久光はその遺志を継ぎ、朝廷から幕政改革を命じる勅諚を引き出し幕府に実行を迫るつもりだった。しかし、尊攘家として知られる筑前藩士平野国臣(次郎)がかねてより薩摩と交流を持ち挙兵討幕を献策していたことから、久光の率兵は討幕のためとの噂が広まっていたのである。長州藩においても久坂玄瑞ら尊攘派が台頭して長井の開国論を攻撃し、やがて藩論を攘夷に転換させるに至る。尊攘派は薩摩と連携して蜂起する計画であったが、久光は自藩の急進派を寺田屋騒動で粛清してその企てを潰した。
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