長州五傑との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 02:30 UTC 版)
「旧ジャーディン・マセソン商会ビル」の記事における「長州五傑との関わり」の解説
1863年(文久3年)、ジャーディン・マセソン商会は井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援する。横浜支店(英一番館)支店長のウィリアム・ケズウィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)はチェルスウィック号を手配した。5月12日(旧暦)、5人を乗せた船は横浜を出港し、上海に向かった。 5月18日頃 上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会した。話が通じず、結局支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いているらしいことは分かった。そこで「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発した者がいた。この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解したという。 当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。長州五傑は、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、「攘夷」という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から「開国」へと考えを変えていった。
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