長州周辺部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 05:14 UTC 版)
討伐目標となった長州藩の周囲、特に天領である大森銀山一帯や譜代大名である浜田・小倉両藩などは軍隊の駐屯に加えて過大な負担を要求された。ところが7月18日に浜田城が長州藩軍に落とされ、21日には大森の幕府代官が逃走、8月1日には小倉藩が小倉城を放棄(11日に長州藩軍に占領)すると、その領内で一斉に一揆が発生した。幕府側の援軍として現地にいた松江藩軍や大森銀山警備の職にあった紀州藩安藤家(後の紀伊田辺藩)軍が一揆に押されて潰走した。だが、石見では同国を占領した長州藩軍に、豊前では香春で再起を図った香春藩(旧小倉藩)軍によって鎮圧された。だが、11月に入ると、美作津山藩や豊後杵築藩、播磨龍野藩でも軍役などの負担に耐え切れなくなった農民らによる一揆が発生した。これらの諸藩は長州討伐のための経路上にあり、幕府軍の動きを制約することになる。なお、龍野藩の一揆では援軍にかけつけた赤穂藩軍が返り討ちにあっている。
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