壮絶な最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:48 UTC 版)
王邑はその後長安へ引き返した。この時、楽経祭酒の崔発は、王邑は小心者であるから自害しないよう慰める必要があると王莽に進言し、崔発が使者となってその役を担う。まもなく、王邑は大司馬に転任し、崔発が後任の大司空に任命された。 同年10月、更始帝(劉玄)配下の軍勢が武関を突破して長安へ攻め込んでくると、王邑は自ら軍を率い、昼夜を問わず督戦して迎撃した。この時、王邑の子王睦が密かに脱出しようと図ったが、王邑はこれを叱責して連れ戻した上で、共に王莽を護衛している。しかし王邑親子は、激しい白兵戦の末に、遂に力尽きて戦死した。
※この「壮絶な最期」の解説は、「王邑」の解説の一部です。
「壮絶な最期」を含む「王邑」の記事については、「王邑」の概要を参照ください。
壮絶な最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 23:48 UTC 版)
九州から帰還した忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白した。キリスト教(カトリック教会)では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。 慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。 この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。 ガラシャの死の数時間後、神父ニェッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉。 なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった。 石田方はガラシャの死の壮絶さに驚き、諸大名の妻子を人質に取る作戦はむやみに拡大しなかった。
※この「壮絶な最期」の解説は、「細川ガラシャ」の解説の一部です。
「壮絶な最期」を含む「細川ガラシャ」の記事については、「細川ガラシャ」の概要を参照ください。
壮絶な最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 16:36 UTC 版)
坂本龍馬が武市らと袂を分ち、沢村惣之丞(延世)らを従え脱藩を決意すると、俊平は信吾とともにこれを助け、文久2年(1862年)3月25日、いったん龍馬と沢村を屋敷に逗留させ、翌日、信吾と共に韮ヶ峠まで彼らを警護したという。韮ヶ峠から先は俊平をそのまま龍馬に従わせ、伊予大洲領の宿間村まで随行させている。だが、翌月の吉田東洋暗殺事件が起こると、信吾がこれに加担し、その後、脱藩したことを知るや、俊平は信吾に対し初めて非難する向きの言葉を述べている。だが記録によれば下人を使い、自身の槍術皆伝書を信吾に渡した、とも伝えられており、脱藩後もなお、信吾との交流は続いていたとされる。 元治元年(1864年)6月5日、天誅組を指揮する吉村虎太郎(重郷)とともに大和で挙兵した信吾が戦死すると、これを悲しんだが、そのいとも間もなく吉田東洋暗殺に那須邸が関わっていることが知られたことで、師への藩の追及を恐れた配下たちはいち早く俊平を脱藩させる。翌月、坂本龍馬に従って土佐を脱藩していた松山深蔵が、禁門の変の勃発を見て組織した浪士結社部隊・忠勇隊の傘下に入り京へ進軍した俊平は、池内蔵太(定勝)らとともに薩摩藩を都より放逐する為に兵を挙げる。同月19日、ついに京へ流れ込み薩摩、会津藩らと凄まじい攻防戦を演じたが、鷹司邸後門での戦闘で討死した。溝に足を取られ戦闘不能に陥ったところを越前藩兵に襲われ首を討たれたと伝えられている。 現在、檮原町において、彼を偲んで邸宅跡に銅像が建っているほか、同町の維新の門でも養子・那須信吾とともに立つ像を見ることができる。
※この「壮絶な最期」の解説は、「那須俊平」の解説の一部です。
「壮絶な最期」を含む「那須俊平」の記事については、「那須俊平」の概要を参照ください。
- 壮絶な最期のページへのリンク