土佐藩召抱
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翌3年5月12日(1856年6月14日)、関田の門人の中で技量卓越と評価の高かった行秀が師の役を嗣いで土佐藩召抱となり御鉄道具御用兼藩工の職に就き、職人支配役を命ぜらる。藩より支給された禄は三人扶持で、作刀および武器の製造に従事。この時、名を「久兵衛」から「久左衛門」へ改めた為、土佐藩の史料では専ら「豊永久左衛門」の名で知られる。のち大島山(五台山、高知県護国神社附近)に居を移し作刀。安政7年2月(1860年3月)、再び江戸に出て、深川砂村の土佐藩邸(下屋敷)に鞴を構へ作刀および武器製造に従事した。
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