土佐藩士への処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:16 UTC 版)
土佐藩は警備隊長箕浦、西村以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めた。一方朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者の数を減らすように要求。結局、政府代表の外国事務局輔東久世通禧、外国事務局掛小松帯刀、外国事務局判事五代友厚らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下二十人を処罰すること。処刑の時間および場所などをまとめた。 まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、大坂白髪町(現・大阪府大阪市西区北堀江)にある土佐稲荷神社で籤を引いて決めた。 死刑となった顔ぶれは以下の二十名である(堺妙国寺十一烈士銘々図傳 )。 箕浦猪之吉元章(25歳) 西村佐平次氏同(24歳) 池上弥三吉光則(38歳) 大石甚吉良信(35歳) 杉本広五郎義長(34歳) 勝賀瀬三六稠迅(28歳) 山本哲助利雄(28歳) 森本茂吉重政(39歳) 北代堅助正勝(36歳) 稲田貫之丞楯成(28歳) 柳瀬常七義好(26歳) 以上が切腹した(括弧内は没時の年齢)。 橋詰愛平有道 川谷銀太郎重政(恩赦直前の1868年9月5日病死) 金田時治直政 竹内民五郎都栄 岡崎栄兵衛重明 土居八之助盛義 横田辰五郎正輝 垣内徳太郎義行 武内弥三郎栄久 川谷以外は恩赦八士と呼ばれた。
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