土佐藩出向と新政府官僚時代
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「沼間守一」の記事における「土佐藩出向と新政府官僚時代」の解説
明治2年(1869年)の放免後、日本橋瀬戸物町に英学指南所を開くが「政府転覆のため人を集めているのでは」と疑われ一時捕縛される。5月、板垣退助・谷干城の紹介で土佐藩邸兵士教授方となる。英語も教授したとも言われるが明治時代以降の回想に限られており当時の史料からは英語に関する記述が乏しい。 明治4年(1871年)7月、廃藩置県発令とともに土佐藩邸を辞し、横浜へ赴き商人として一年間生糸商・両替商を営む。「士族の商法」で赤字を出す。 明治5年(1872年)4月、大蔵大輔・井上馨の推薦で租税寮七等出仕、横浜税関詰となる。7月、物議を醸しがちの沼間をもてあました井上が司法卿・江藤新平に推薦し、司法省七等出仕となる。欧州に派遣され各国を巡る。この頃、幼名の慎次郎から守一に改名したとされる(明治2年に改名の可能性もある)。 明治6年(1873年)9月、帰国。11月に司法省六等出仕に昇進。同士とともに嚶鳴社の前身・法律講習会を設立する。 明治7年(1874年)2月、少判事に任じられる。明治8年(1875年)5月、五等判事に任じ大阪裁判所詰を命じられるが固辞。7月、河野敏鎌の推薦で元老院権大書記官となる。9月、鶴岡事件調査のため同県に出張、11月帰京。 明治10年(1877年)、西南戦争に際し「義勇兵募集演説会」を開く。明治11年(1878年)、法律講習会を嚶鳴社と改称。
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