土佐藩兵の上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
10月18日(太陽暦11月13日)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対する乾退助を土佐に残し、土佐藩(勤皇派)上士・山田喜久馬(第一別撰隊隊長)、渋谷伝之助(第二別撰隊隊長)らが兵を率いて浦戸を出港。しかし、この時「もし京都で戦闘が始まれば藩論の如何に関わらず、薩土討幕の密約に基づき参戦し薩摩藩に加勢せよ」との内命を乾退助より受ける。この日、退助は在京の同志である谷干城に宛て、左行秀の不穏な行動に注意するよう書簡を託した。 …過日豊永久左衛門(左行秀)、関東より僕が中村(中村勇吉)への私簡を携来り、榎派に合して姦を為し申候。実に無由にて今に始めず殆ど姦術に係り申し候。(中略)然るに右久左衛門なる者、近日又東行仕趣、京師に至ても何等の姦を為し候も難図(はかりがたく)、関東迄も同断之義ニ付、精々御用心可被成、其故に申上候間屹度御覚悟被成度奉存候。心事固(もと)ヨリ筆舌に難尽候。御推察可被下候。恐惶再拝。(慶応三年十月十八日) — 乾退助 10月19日(太陽暦11月14日)、大政奉還論に反対したことにより乾が、土佐藩仕置役(参政)を解任され失脚した。
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