土佐藩兵の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:16 UTC 版)
箕浦元章(猪之吉)率いる土佐藩六番隊は、鳥羽・伏見の戦い直後の慶応4年1月9日八つ時(午後2時)に京を出立、淀城に向かった。新政府軍総裁仁和寺宮彰仁親王警護の土佐藩兵先鋒と交代するためであったが、同日夜に淀城に到着した時は、仁和寺宮と警護兵は既に城を立ち大坂に向かった後だった。軍監・林茂平(亀吉)の判断で六番隊は翌10日夜明けに淀城を立ち、淀川を下って、同日夜大坂で仁和寺宮隊と合流した。この時点で仁和寺宮の警護は薩摩藩兵に代わっており、六番隊は当初の目的を失ってしまった。 1月11日、六番隊の新たな任務が堺町内の警護に決まった。当時の堺は大坂町奉行の支配下にあったが、1月の大坂開城で大坂町奉行は事実上崩壊し、旧堺奉行所に駐在していた同心たちも逃亡してしまっていた。六番隊は即日出発し、その日のうちに堺に入った。 1月16日、箕浦の下に神戸事件の情報が入った。事件は箕浦を怒らせるに十分であった。箕浦はもともと儒学者で、その日のうちに箕浦は在京阪の土佐藩兵力を検討している。 神戸事件以外に箕浦を苛立たせていた出来事があった。1月17日、大坂の林軍監より「中国四国征討総督四条隆謌の姫路進発のため、堺の土佐藩兵の一部を大坂へ帰還させよ」との命令が出たのである。これでは任務を遂行できないとみた箕浦は、林に増援を求める書状を送り、さらに自ら大坂の軍監府に赴いた。 箕浦の要求が通り、京から西村佐平次率いる八番隊が到着したのは2月8日である。
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