土佐藩の石高
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 14:06 UTC 版)
16世紀末、太閤検地の際に長宗我部家が届け出た土佐国の石高は9万8000石に過ぎなかった。山内一豊は土佐入国後に再度算定し、慶長10年(1605年)に20万2600石余りと届け出た。 元和元年(1615年)、阿波徳島藩が淡路国の加増によって表高が17万石余から25万7000石になると、土佐藩は対抗したかのように「25万7000余石」を申告する。これは、石高を高く申告すると、幕府による大工事などで大幅に負担が増えることとなるにもかかわらず、四国一の大名であろうとした見栄が原因である。ただし、幕府はこの申告を認めず、朱印状は従来のまま「20万2600石余」であった。その後、新田開発が進んだ結果、明治3年(1870年)の廃藩置県前には本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田は計49万4000石余に達していたとされる。 ちなみに「24万2000石」と称されるが、これは宝永年間以降の武鑑などに基づく俗聞である。
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