土佐藩における大政奉還構想とは? わかりやすく解説

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土佐藩における大政奉還構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:27 UTC 版)

大政奉還」の記事における「土佐藩における大政奉還構想」の解説

雄藩政治参加を伴う公武合体構想していた薩摩藩は、参預会議1864年)の崩壊により将軍後見職徳川慶喜幕閣との対立深め、また切り札考えた四侯会議1867年)でも15代将軍に就任した慶喜政治力により無力化されたため、慶喜前提とした諸侯会議路線断念し長州藩とともに武力倒幕路線傾斜していき、5月21日土佐藩士乾退助谷干城らが、中岡慎太郎仲介により薩摩藩家老小松帯刀京都寓居御花畑屋敷)において、同藩士西郷隆盛吉井幸輔らと薩土討幕の密約を結ぶ。 これに対抗して大政奉還論を推進するべきと考えたのが土佐藩参政後藤象二郎である。6月9日坂本龍馬大政奉還を含む新たな政治綱領船中八策』を後藤提示したとされることもあるが、これは後世の創作である。 後藤6月17日から在京土佐藩幹部である寺村道成真辺正心福岡孝弟らに大政奉還論の採用主張した。これに薩摩藩小松帯刀らも同意し6月22日薩土盟約締結された。これは幕府朝廷大政奉還し権力一元化し、新たに朝廷議事堂設置して国是決定すべきとするもので、その議員公卿から諸侯陪臣庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。 大政奉還論はいわば、平和裏政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは慶喜大政奉還拒否する予想し、これを討幕口実にすることにあったといわれる。そのため、盟約には土佐藩の上出兵および、将軍職廃止建白書明記することが約束された後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、土佐藩隠居山内容堂大政奉還藩論とすることには同意したものの上出兵には反対し、建白書条文から将軍職廃止条項削除した薩摩側は長州藩芸州藩との間で武力倒幕路線進めており、結局9月7日薩土盟約解消された。

※この「土佐藩における大政奉還構想」の解説は、「大政奉還」の解説の一部です。
「土佐藩における大政奉還構想」を含む「大政奉還」の記事については、「大政奉還」の概要を参照ください。

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