土佐藩における郷士制度
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山内家の土佐入封時、掛川城主時代までの家臣(板垣退助らの家系)や土佐入封の翌年に大坂牢人を取り立てたもの(後藤象二郎らの家系)を上士とし、土佐にいた郎党・地侍を郷士としたと説明されることがあるが、実際には有能な人材であれば、長宗我部旧臣であっても郷士ではなく、最初から上士として召抱えられた場合が多数存在する(以下に実例を挙げる)。また、郷士であっても上士待遇の「白札郷士」とされた場合もあり、郷士から「白札郷士」に出世できる制度も存在し、司馬遼太郎の歴史小説などにしばしば見られるような「旧長曽我部家臣は、郷士にされ差別的待遇を受けた」と言う類いの短絡な説や「相撲大会と称して種崎に郷士を集め虐殺した」等の話は史実とは異なる。武市半平太は祖父の代より白札郷士であったし、坂本龍馬の大叔父の宮地家なども「庄屋→郷士→白札郷士(上士)」と家格が上がった家である。幕末期には、家老格、中老格、馬廻格、小姓格、留守居格を以て上士を構成した。 郷士は、基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていた。関ヶ原の戦い以前の旧領主である、長宗我部家遺臣のうち、半農半兵であった一領具足の系譜を引く者が多く、慶長18年(1613年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行うたびに取り立てられてきた。これらは、長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙ったものであった(江戸幕府は、大名統制策として様々な普請を外様大名を中心に請け負わせており、また、地理的条件から土佐藩の江戸参勤に掛かる費用も莫大であったことから、土佐藩では早くから増収策に熱心であった)。郷士1人当たりの開発許可面積は、だいたい3町ほどであった。なお、長宗我部家遺臣のうち、山内家への仕官に応じた名家は土佐入封前からの家臣同様、上士に属した。 時代が進み、江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し始める。すると、困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、次第に、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(郷士の多様化)。 元禄期には郷士も公役に就くことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきた。幕末には郷士総数は800人を数えた。うち、370人が大組と呼ばれ、おのおのが家老に属しており、御預郷士と呼ばれた。残り430人が小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付郷士として、非常時に規定の場所で海防に従事していた。 多くの郷士は農村や山間部に居住していたが、上士居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者もいたようである(→坂本龍馬の家が一例である)。 長宗我部旧臣系の上士 北川氏 - 北川筑前、同弟・北川玄蕃の子孫 吉田氏 - 吉田東洋、吉田正春 武市氏 - 武市正恒、武市瑞山 宮地氏 - 宮地信貞(坂本龍馬の大叔父)、宮地茂春 大黒氏 - 大黒清勝(無双直伝英信流居合宗家) 池田氏・林氏 - 林政誠、池田政承(無双直伝英信流居合宗家) 谷氏 - 谷秦山、谷干城 本山氏 - 本山茂任 明神氏 - 明神善秀 鹿持氏 - 鹿持雅澄 小谷氏 - 小谷正臣(板垣退助の妻の父) 松田氏
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