土佐藩の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)
土佐藩から四侯会議に参加していた前藩主・山内容堂の不甲斐無さに危機感を感じた中岡慎太郎は江戸藩邸の乾退助に対し書簡を送る。乾はことの重大さに感じ、職を辞して急ぎ旅装を整え、5月18日京都に到着。安芸藩・船越洋之助、土佐藩・福岡藤次、中岡らは討幕の策を練った。5月21日、乾(板垣)退助と谷干城らは、土佐脱藩を許されたばかりの中岡慎太郎(変名:石川清之助)の仲介によって、同日夕刻、京都の小松清廉寓居にて、西郷隆盛、吉井友実らと薩土討幕の密約(薩土密約)を交わした。ただし、当時は山内容堂が、徳川恩顧の立場から公武合体・佐幕路線を模索していたため、西郷と乾らのとの間で独断で約束され、翌日、5月22日報告を受けた山内容堂が事後承認する形で締結された。 一方、後藤象二郎は、慶応3年正月に同藩脱藩の浪士坂本龍馬と長崎で会談し、坂本から大政奉還論を聞いて共感していた。後藤は容堂の呼び出しを受けると、坂本を伴って6月9日に土佐藩船夕顔号で長崎を出発。(この上京の途中、坂本が後藤に今後の政局の方針を説いたいわゆる「船中八策」を献策したとされる説は後世の創作) 乾退助らが土佐に帰国するのと入れ違いに、6月12日後藤象二郎と坂本龍馬が、大坂に到着、翌日には入京するが、すでに容堂は帰国後であった。中岡慎太郎、乾退助らによって薩藩とは討幕の密約を結んだものの山内容堂は徳川宗家への強い恩顧意識があり、心中の揺れ動きの幅が大きく、討幕への意欲が不安定であったため、更に幕府の力を段階的に削ぐための方策として、6月22日(太陽暦7月23日)、京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(大久保利通)、西郷吉之助、土佐の寺村道成(日野春章)、後藤象二郎、福岡藤次(福岡孝弟)、石川誠之助(中岡)、才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、大政奉還の策を進めるために薩土盟約が締結される。この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、同年6月26日(太陽暦7月27日)、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展するが、強固なる武力討幕を目指す乾退助へは当初、薩土盟約の存在が伏せられ、また、穏健に将軍家を維持する方策を模索していた、寺村道成、後藤象二郎へは反対に薩土討幕の密約の存在が伏せられていた。
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