土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対の意味・解説 

土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)

薩土盟約」の記事における「土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対」の解説

盟約締結後すぐさま土佐藩兵力率いて帰京する予定後藤であったが、実際には主に2つ大きな理由によって大幅に遅れ、盟約破綻の原因となった。その理由とは、山内容堂出兵無用論とイカルス号事件の処理による遅滞である。 7月8日高知到着した後藤真辺寺村らは、翌9日容堂に面会して薩摩藩との盟約について説明した。容堂は盟約主旨である王政復古大政奉還方針に関して大い賛成した。しかし、そのための手段として兵力用いることに関しては、脅迫以外の何者でもなく、不本意であるとして、同意しなかった。この容堂の出兵無用論が、後に薩土盟約破綻最大原因となる。 またイカルス号事件とは、7月6日長崎イギリス船籍イカルス号乗員水兵殺害され事件で、下手人土佐出身海援隊士であるとの容疑かかっていた。英国公使パークス知らせ聞く激怒し、自ら高知赴いて土佐藩犯人隠匿しないよう圧力かけようしたほどである。幕府は対応に困り土佐藩在京幹部急ぎ帰国してパークス応接をするよう命じたため、8月1日佐々木由比薩摩藩船三邦丸を借用して帰国することとなり、坂本随行した8月6日土佐到着したパークスに対して後藤交渉命じられ下手人土佐人である証拠はないと主張して譲らず、パークス激怒させたが、8月8日には交渉妥結パークス高知去った。 こうして事件一段落した後の8月20日藩主山内豊範家臣を城に召し最近倒幕論を唱える者がいるようだもってのほかであり、自らの下知指令)を待つべきであると宣言同日夕刻容堂・豊範は重臣召集して、大政奉還建白について後藤寺村上京して従事すること、土佐藩の上京は見合わせることを正式に通達した(ただし容堂は出兵はしばらく見合わせるものの、将来的に(建白拒否され場合に)出兵する可能性否定しなかった)。この藩の正式決定を受け、後藤寺村真辺の3人は8月25日高知出発した(さらに天候不良のため出港9月1日となる)。

※この「土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対」の解説は、「薩土盟約」の解説の一部です。
「土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対」を含む「薩土盟約」の記事については、「薩土盟約」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対」の関連用語

1
12% |||||

土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土佐藩:後藤の遅滞と容堂の反対のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの薩土盟約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS