しぞく‐の‐しょうほう〔‐シヤウハフ〕【士族の商法】
士族の商法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 00:24 UTC 版)
四民平等へと移行される過程で、士族身分は平民と何ら変わらない存在となっていき、生計を立てるため農業や商業を始めた。塚原渋柿園によると、商業で最も多かったのは、汁粉屋、団子屋、炭薪屋、古道具屋などであったという。特に屋敷の長屋などで先祖代々の家財道具を並べた安直な古道具屋は供給に対して需要が少なく、横柄で堅苦しい客応対もあり、庶民の憐憫と嘲笑を買った。 このように、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗する例は多く、「士族の商法」と揶揄され、性急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえともなった。落語のネタにもなり、三遊亭圓生の『士族の商法』、八代目桂文楽の『素人鰻』は特に有名である。また、歌舞伎では『水天宮利生深川』、『霜夜鐘十字辻筮』が散切物の代表作となっている。 こうした状況に対し政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産などが行われたが、やはり失敗する例が多かった。西郷隆盛が唱えた征韓論にも士族の救済という側面があったが、西郷が政争に敗れ実現しなかった。特権を奪われた士族の一部は新政府の政策に不平を唱えて(不平士族)各地で反乱(士族反乱)を起こした。しかし、不平士族の反乱はすぐに鎮圧され、多くは没落して故郷へ帰るなどした。 このことも風刺の対象となり士族の商法とかけて「有平糖」(不平党)、「お芋の頑固り不平おこし」(薩摩士族)などと皮肉られた。なお、不平士族には政治運動「士族民権」を展開するものもあり、後に豪農と結び付き自由民権運動へと移行した。 ただし、士族の中でも知識や人脈、既得権益を生かして実業家に転向する者も見られ、例として、日産コンツェルンの創始者鮎川義介、日本初の百貨店(三越百貨店)創立者日比翁助などが挙げられる。また、士族銀行や殿様銀行と呼ばれる士族の資産を活かした銀行(国立銀行)が設立され、日本の殖産興業政策を活性化させた。武芸や学問に通じた者は、軍人、警察官、教師など官吏に転向したり、かつての藩主と藩士の縁故関係から県・郡役所に採用された例も多い。酪農のように、元来の農民がこれを忌避したがために、士族がこれを手がけて成功した例もある。
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