長岡帰参と廃藩後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 10:03 UTC 版)
敗戦後は長岡に戻り、惣領の三郎重恭を藩に出仕させた。長岡藩は7万4千石から2万4千石に領地を削減されたが、稲垣氏はその家禄を藩政改革ですでに大幅に減知されていたためか、あるいは官軍に弓を引かなかったためか、100石の減知に留まり400石となったが、三郎は役職に恵まれず計司(経理)に甘んじた。また、自身は藩民政局を担当した。 長岡では重光が藩主家の助命嘆願をしたとはいえ、藩命に背き出奔した不忠の家臣として、現代でもいまだになお罵る風潮がある。 様々な誹謗・中傷の中で余生を過ごしたが、廃藩置県後は、大きな桑畑を持っていたのでこれの開墾・育成に精を出し、また旅籠の経営にも手を出したが、いわゆる士族の商法でたちまち破産した。 重光は西洋文明に対する知識は豊富であり、六女の杉本鉞子(えつこ)は、結婚のため24歳で渡米。米国において日本文化の紹介者として著名となり、日本人として初めてコロンビア大学講師となった。主著に『武士の娘』がある。 『長岡なんでも百点2』(テレビ新潟編)に「腰抜け武士?・稲垣平助」という章がある。
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