大蔵省出仕
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旧幕臣は多く静岡藩に出仕して移住したが、これに与せず平民となり、横浜に出た。滞欧中ナポレオン3世の威光に接していたため、明治3年(1870年)に普仏戦争が勃発すると、生糸需要国フランスの勝利を見込んで生糸を買い込んだが、フランスはナポレオン3世がプロイセンの捕虜になる大敗となり当てが外れ、士族の商法の例に漏れず借財を作った。 しかし、この間伊藤博文・川村純義と面識を持ち、明治4年(1871年)11月に岩倉使節団が計画されると、留学経験を見込まれ渋沢栄一・田辺太一等によって推挙され、大蔵省三等書記官として随行することとなった(かつて留学生だった林董も二等書記官として参加していた)。 明治5年(1872年)6月25日、アメリカ・ニューヨークで財政出納事務、翌明治6年(1873年)1月10日にオランダで土木工役視察を命じられ、建築師ケンプルを伴いアムステルダムの運河、マース川堤防、ニューウェ・ワーテルウェフ(オランダ語版)、ハーレマーメール埋立地、ゼーラント州堤防を視察した。9月に使節団と共に帰国し、大蔵省で会計残務の整理を行った。 明治7年(1874年)3月28日に横浜に出張し、外国人交渉事務。明治8年(1875年)1月から4月まで工部省大鳥圭介、大蔵省河野通猷、北島兼弘、オーストリア公使セッファー と共にシャムに出張した。 同年10月、大蔵卿大隈重信に「現貨濫出論」を提出して金銀比価の是正を提言し、翌明治9年(1876年)3月4日に貨幣条例が改正されたが、効果は薄かった。また、西洋式簿記にアラビア数字を用いることを建言し、米商会所の設立に参画した。 明治9年(1876年)1月12日に大蔵権少丞、2月20日に正七位に進むが、明治10年(1877年)1月11日に各省の大少丞が廃官となり、罷免された。その後、横浜税関長に推挙されるも実現せず、英米人の法律顧問、仲裁裁判所の特例実施等の仕事を細々と行った。
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大蔵省出仕
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松方正義が九州を巡回した際に知遇を得、明治4年(1871年)内務省、大蔵省に出仕した。1875年(明治8年)大阪造幣局に勤務した後、1877年(明治10年)帰京し、大蔵大臣秘書官、総理大臣秘書官等を歴任した。1877年(明治10年)パリ万国博覧会事務官随行を命じられ、松方正義に随いイギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイスを歴訪した。 1880年(明治13年)3月内務省に転勤、10月大蔵省に戻り、1881年(明治14年)3月内国勧業博覧会審査書記を務めた。1881年(明治14年)11月農商務大書記官前田正名の欧米視察に同行、1883年(明治16年)4月大蔵省に戻り報告課事務を行った後、11月26日権少書記官となった。1886年(明治19年)3月9日松方正義大蔵大臣秘書官となり、1891年(明治24年)第1次松方内閣、1896年(明治29年)第2次松方内閣では内閣総理大臣秘書官を兼任した。 1893年(明治26年)、1891年(明治24年)6月大蔵官僚稲垣兼太郎非職満期時の恩給給付を失念していたことが発覚、5月13日譴責を受け、6月13日「省務ノ都合二依リ」依願退職した。
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