大蔵省出仕とは? わかりやすく解説

大蔵省出仕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 19:31 UTC 版)

川路寛堂」の記事における「大蔵省出仕」の解説

旧幕臣は多く静岡藩出仕して移住したが、これに与せず平民となり、横浜出た滞欧ナポレオン3世威光接していたため、明治3年1870年)に普仏戦争勃発すると、生糸需要フランスの勝利見込んで生糸買い込んだが、フランスナポレオン3世プロイセン捕虜になる大敗となり当て外れ士族の商法例に漏れず借財作った。 しかし、この間伊藤博文川村純義面識持ち明治4年1871年11月岩倉使節団計画されると、留学経験見込まれ渋沢栄一田辺太一等によって推挙され大蔵省三等書記官として随行することとなった(かつて留学生だった林董二等書記官として参加していた)。 明治5年1872年6月25日アメリカ・ニューヨーク財政出納事務、翌明治6年1873年1月10日オランダ土木工役視察命じられ建築師ケンプルを伴いアムステルダムの運河マース川堤防、ニューウェ・ワーテルウェフ(オランダ語版)、ハーレマーメール埋立地ゼーラント州堤防視察した9月使節団と共に帰国し大蔵省会計残務整理行った明治7年1874年3月28日横浜出張し外国人交渉事務明治8年1875年1月から4月まで工部省大鳥圭介大蔵省河野通猷、北島兼弘、オーストリア公使セッファー と共にシャム出張した同年10月大蔵卿大隈重信に「現貨濫出論」を提出して金銀比価是正提言し、翌明治9年1876年3月4日貨幣条例改正されたが、効果薄かったまた、西洋式簿記アラビア数字用いることを建言し、米商会所設立参画した。 明治9年1876年1月12日大蔵少丞2月20日正七位に進むが、明治10年1877年1月11日各省の大少丞廃官となり、罷免された。その後横浜税関長に推挙されるも実現せず英米人の法顧問仲裁裁判所特例実施等の仕事細々行った

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大蔵省出仕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 21:01 UTC 版)

谷謹一郎」の記事における「大蔵省出仕」の解説

松方正義九州巡回した際に知遇を得、明治4年1871年内務省大蔵省出仕した1875年明治8年大阪造幣局勤務した後、1877年明治10年帰京し大蔵大臣秘書官総理大臣秘書官等を歴任した1877年明治10年パリ万国博覧会事務官随行命じられ松方正義に随いイギリスベルギーオランダドイツスイス歴訪した。 1880年明治13年3月内務省転勤10月大蔵省戻り1881年明治14年3月内国勧業博覧会審査書記務めた1881年明治14年11月商務大書記官前田正名欧米視察同行1883年明治16年4月大蔵省戻り報告事務行った後、11月26日書記官となった1886年明治19年3月9日松方正義大蔵大臣秘書官となり、1891年明治24年第1次松方内閣1896年明治29年第2次松方内閣では内閣総理大臣秘書官兼任した1893年明治26年)、1891年明治24年6月大蔵官僚稲垣兼太郎非職満期時の恩給給付失念していたことが発覚5月13日譴責を受け、6月13日省務都合二依リ」依願退職した。

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