大蔵省への入省と醸造試験所
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「矢部規矩治」の記事における「大蔵省への入省と醸造試験所」の解説
1896年(明治29年)6月、大蔵省に入省し、鑑定官に任じられた。専売局鑑定官・税関鑑定官を兼務し、酒類・たばこの鑑定にあたった。1901年(明治34年)6月、ヨーロッパに出張し、各国の税務や醸造事業を調査した。特にベルリン醸造研究所(ドイツ語版、英語版)では醸造研究に従事し、組織や事業を調査した。1902年(明治35年)11月帰国した。1903年(明治36年)、醸造試験所設立準備委員に任命され、その設立に寄与。1904年(明治37年)に醸造試験所が設立されると、大蔵技師の本務はそのままに初代事業課長に就任し、醸造技術研究の計画・指導にあたった。 日清戦争後の時期は、日本酒の製造をめぐる大きな変化が見られた時期であった。酒造税は政府の重要な財源であり、1899年(明治32年)に酒造税は地租を抜いて国税の税収第1位となった。この時期は醸造の科学研究が進んだ時期でもあり、古在由直ら醸造学者たちは、従来の経験的・秘伝的な醸造技術に代わり、科学的な醸造技術を普及しようとした。古在由直は純粋酵母を使用することで従来の複雑な酒母製造工程(生酛参照)を省略することが可能となり、酒造経費を削減できるほか、清酒の腐敗(火落ち)問題も解決できると発表した。また、東京高等工業学校の奥村順四郎は、酒母(酛)に純粋酵母を添加することによって従来の製法よりも醸造期間を大幅に短縮できるとする添加酛法を発表していた。しかし、これらは「学者の酒造法」として酒造家(とくに杜氏たち)からは敬遠されていた。1901年(明治34年)、酒造税の増税(第三次)が行われると、担税当能力を高めることが求められた酒造業者は、醸造技術の改良に取り組むこととなった。政府も税源涵養のため、醸造技術の研究・普及・指導に目を向けた。醸造試験所はこうした時代背景の下で設立され、各地の税務監督局に配置された技官が指導にあたった。1906年(明治39年)には醸造協会が設立され、会誌の発行、酵母(協会系酵母)の頒布、全国品評会(全国新酒鑑評会)や酒造講習会の開催を行った。 税務に携わる大蔵省技師としては、特許局審査官、関税訴願審査委員、条約改正準備委員などの役職を務めた。1910年(明治43年)10月に条約改正のためヨーロッパに出張。この際、イギリス・フランス・ドイツで醸造事業を視察し、1911年(明治44年)に帰国。 1915年(大正4年)、財団法人日本醸造協会の設立に関わって理事となった。また同1915年(大正4年)には、酒造技術者の全国組織である日本醸友会の結成に関与し、初代会長となった。1920年(大正9年)、農学博士の学位を授けられる。
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