士庶の別と流外官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
周代に大夫および士の支配者階層と庶と呼ばれる被支配階層が存在した。「刑は大夫に上らず、礼は庶人に下らず」(『礼記』)の語が示すように、士と庶の間には明確な差別があり、隔絶した存在であった。 九品官人法では官僚を九品に分けるが、これだけで膨大な国家維持のための業務を全てこなせるわけではなく、九品の下に庶民が就く官職があった。これを流外官と呼ぶ。流外官に就くには郷品は必要ないが、長年の勤務と共に位が上がり最終的に品内の官職に就くこともでき、この時には改めて郷品が下されることになり、このようにして郷品を得た庶民を寒人と呼ぶ。 ただし同じ九品内ではあっても寒人が就く役職は元から郷品を得ている貴族層が就く役職とは厳密に区別されており、一種の特殊な官僚区域を形成することになった。これを勲位・勲品と呼び、勲位二品(官品六品)から勲位六品(流外官)までに分けられる。 この体制が固まるにつれ、門地二品が就かない役職つまり官品七品以下の役職は軽く見られるようになり、南朝梁の武帝の改革時に全てが流外へとはじき出されることになった。南朝梁の体制では流外は七班に分けられる。 しかし貴族層は代を重ねるごとに『顔氏家訓』に現れるような無能・無気力の輩と成り果て、要職に就いてもその職務を全うできないことが多くなった。それに代わって実際に職務を行ったのがこれら要職の補佐に付いている寒門・寒人出身の者たちであり、彼らは社会的地位は低くても実際に持つ権力には無視できないものがあった。また貴族に嫌われた軍職も多くが寒門・寒人層の就く役職であり、平和なときはともかく、一旦乱が起きれば兵力を背景にして大きな権力を握った。それに加え、寒人層の出身である大商人・大地主層は梁から陳にかけての貨幣経済の発達の中で財力を伸ばし、それに伴ってその権力も大きくなっていった。 これらの要素により、南朝陳には寒人層の持つ権力はとても無視できない状態になり、貴族が政治権力を独占する貴族制は南朝陳には完全に形骸化していたと考えられる。
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