士族の特権の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 00:24 UTC 版)
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀や殺人権(切捨御免)などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。 士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は、1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。また、苗字の名乗りは1870年に平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。この他にも1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていた。1876年(明治9年)の木戸孝允らの案では、華族に公爵、伯爵、士族に士爵の爵位を授けることが構想されていたが、木戸の死と士族の反乱などが重なり、沙汰止みとなった。 1884年(明治17年)の華族令により勲功者も華族となる道が開かれ、維新の功労者、功績を上げた政治家や軍人、事業に成功した資産家などが華族に列するようになった。この勲功華族の制度の誕生で平民や士族に華族への道が開かれ、一部が華族になった。しかし勲功華族に昇格できた士族はごく一部にとどまり、大半は士族のままだった。士族は平民と比して特権は一切なく、単に戸籍における族称のみだけの存在である。1914年戸籍法改正により身分登記制も廃止された。
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