乾退助の土佐藩邸水戸浪士隠匿事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 20:37 UTC 版)
「左行秀」の記事における「乾退助の土佐藩邸水戸浪士隠匿事件」の解説
慶応2年12月(1867年1月)、水戸浪士の中村勇吉(天狗党残党)、相楽総三、里見某らが土佐藩士・乾退助を頼って江戸に潜伏。江戸築地土佐藩邸(中屋敷)の惣預役(総責任者)であった退助は、参勤交代で藩主が土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、独断で彼等を藩邸内に匿った。この隠匿を退助は、江戸在府の藩士で気心の知れた、山田喜久馬、真辺戒作、小笠原謙吉にのみ打ち明けその世話を一任した。その頃、土佐藩は輸入品の西洋銃を元に日本製の新式銃を造る計画を立て、その製造責任者に行秀を配し職人を集めて鉄砲を製造していた。行秀と退助は昵懇の仲となり、退助から義侠心がある男と見込まれて、中村ら水戸浪士の隠匿を打ち明けられる。
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