乾退助を頼り江戸潜伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:58 UTC 版)
慶応2年12月(1867年1月)、江戸築地土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった乾退助(後の板垣退助)頼って江戸に潜伏し庇護を求める。乾退助は、参勤交代で藩主が土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、独断で彼等を藩邸内に匿った。のち相楽総三、里見某ら水戸浪士複数名が潜伏に加わる。中村ら水戸浪士は当初、薩摩藩に恨みを懐いていた。それは禁門の変の時に、長州藩を砲撃した為である。しかし、退助は「それは君達の間違いである。今日の時勢においては、絶対に浮浪の徒だけで事大を成すことは出来ない。藩は全力を挙げて取り組まねばならないし、そうなると薩摩藩と組む事になるかもしれない」と諫められる。土佐藩築地藩邸(中屋敷)潜伏後、この隠匿を退助は、江戸在府の藩士で気心の知れた、山田喜久馬、真辺戒作、小笠原謙吉にのみ打ち明けその世話を一任した。のちに退助は、筑後出身の刀鍛冶で土佐藩に召抱えられた豊永久左衛門(左行秀)と昵懇の仲となり、義侠心がある男と見込んで、中村ら水戸浪士の隠匿を打ち明ける。
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