野中氏の由来と子孫についてとは? わかりやすく解説

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野中氏の由来と子孫について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:16 UTC 版)

野中親孝」の記事における「野中氏の由来と子孫について」の解説

芳野城の野中氏と長岩城の野仲氏 野中氏の先祖豊前国下毛郡長岩城であったとされている。野中氏は九州では野仲と称した。野仲氏の祖は建久7年1196年)に野仲郷に入部した宇都宮重房である。重房長岩城主として本家宇都宮氏と共に豊前一大勢力となり、室町時代になると豊前守になった大内氏臣従して群代となり、勢力振るうようになった弘治3年1557年)、大内義長毛利元就滅ぼされると、野仲は大友氏反旗を翻し長岩城籠城した。しかし、大友義鎮攻められ降伏した天正10年1581年)に織田信長本能寺横死し、その後豊臣秀吉天下統一目指し九州制圧し中津黒田如水長政父子を新領主として入部させた。黒田父子に対して城井宇都宮氏と野仲鎮兼は抵抗し滅亡させられた。1570年代にすでに芳野城主野中肥後守貞吉息子たちは元親公とともに土佐統一のために各地転戦していたのであるから、年代的に齟齬生じている。 野仲氏の一族幡多移住 ここで土佐幡多に目を移したい。土佐幡多治めていた一条兼定1564年大友義慎の娘を娶り、大友氏結んでいた。長宗我部元親の力が台頭してきたために兼定妹婿安芸国虎呼応して元親を討とうとしたが、翌永禄12年1569年)に国虎が逆に元親に討たれてしまった。兼定暗愚遊興にふけり、家臣から信望失っていった。そのため長宗我部氏幡多侵攻してきたときに一条氏家臣先を争って長宗我部軍門に降った長宗我部家によって領地蚕食され、しかも重臣土居宗珊無実の罪殺害したために兼定信望失い、他の三家老によって天正元年1573年9月隠居強制され天正2年1574年)に豊後国臼杵追放され大友氏頼った他方追放先の豊後では弘治3年1557年)、野仲鎮兼が大友氏反旗を翻した逆に大友氏攻められ降伏した。さてここから推測である。1564年頃に大友氏配下にあった野仲氏一族有力者が、大友氏結んでいた一条兼定援護部隊として幡多派遣されたのではないだろうか。そしてその人物が藤原頼重ではないだろうか。この派遣大友氏が野仲氏の臣従確認弱体化図ったのだったとも考えられなくもない。以後、野仲氏の一族土佐移り住みその後主君山田氏長宗我部氏変えていった。そして最終的に野中三郎左衛門親孝の代に長宗我部家臣団の中で若年寄地位にまで上りつめたと推測する。では次に野仲氏の出自をそのおおもとである宇都宮氏歴史を通じて瞥見する。 宇都宮氏下野宇都宮氏)について 宇都宮氏は、摂関家藤原北家道兼流称する大族である。その一族および分流多く、北は奥羽から南は九州にまで広く分布している。しかし、宇都宮氏出自について諸説あってにわかに判じ難い。宇都宮氏下野中心地宇都宮中世宇都宮は「奥州への前線基地」であり、二荒山神社朝廷仇なす敵を討ち奥州向き合う社壇神社)だったーに城を構え鎌倉御家人列らなり、室町時代になると佐竹氏小山氏などとともに関東八家のひとつに数えられる下野国きっての豪族となった宇都宮氏活動史料確認されるのは、三代朝綱(宇都宮倹校左衛門尉)の代になってからである。朝綱は源平合戦のときは、初め平家方に属したが、のち源頼朝属して活躍したことで、宇都宮検校職を安堵された。この職は神事奉仕するものであり、宇都宮氏鎌倉幕府御家人となった。しかし、建久5年1194年)、朝綱は公田押領したとして朝廷訴えられた。事件の真相不明だが、朝綱は土佐へ、孫の頼綱は豊後へ、頼綱の弟朝業は周防流罪という朝廷による裁定下されたほどなく、朝綱らは赦されて下野帰国し、朝綱は家督を頼綱に譲り、自らは出家して大羽退いたその後、頼綱は幕府から謀叛疑いかけられた。この事件は、北条時政後妻牧の方が、将軍実朝殺害して女婿平賀朝雅将軍職に付けようとしたものであった牧の方は頼綱の実母にあたり、この関係から頼綱も陰謀事件加担した幕府からみられて追討受けたのである。これに対し、頼綱は出家して幕府異心のないことを示したので、頼綱の謀叛嫌疑はようやくにして晴れた出家した頼綱はその後幕府に出仕し、承久3年1221年)の承久の乱には子の頼業や時朝らが活躍した。その勲功として伊予国守護職与えられ宇都宮氏地位安定させることに成功した。頼綱は浄土宗信仰の生活に入り家督嫡子泰綱に譲った以後宇都宮氏は、将軍近侍鎌倉番役衆、文永6年1269年)には引付衆、ついで評定衆加えられ、さらに引付頭人務めたこのように宇都宮氏幕府の有力御家人として活躍した宇都宮氏学芸家柄としても名高く、特に蹴鞠和歌両道秀でていた。そのうち和歌当時にあって京都歌壇鎌倉歌壇にまさるとも劣らない宇都宮歌壇形成していた。 時代下って宇都宮国綱文禄元年1592年)の朝鮮出兵出陣して、増田長盛指揮の下に釜山において戦功をあげた。初め国綱石田三成奏者として秀吉に結びついていたが、文禄2年1593年以降浅野長政奏者とすることになった。しかし、国綱佐竹義重と同様、石田三成との親交維持しまた、長政からその子長重嗣子にという提案拒否したため長政との関係を悪化させた。加えて浅野長政の手によって実施された太閣検地結果表高十八万石に対して二倍三十万石余が打ち出されたため、宇都宮氏所領申告に不正があったと摘発され慶長2年1597年9月突如秀吉の命によって改易処分受けたその後慶長朝鮮出兵際し秀吉戦功次第によっては宇都宮氏再興を許すと約束した国綱朝鮮渡って必死戦い展開したが、秀吉死によって宇都宮氏再興願い絶たれ平安末期以来歴史に幕閉じた江戸時代宇都宮氏水戸徳川家仕え三千石知行する家老となり、明治維新至ったことが知られる豊前宇都宮氏鎮西宇都宮氏)について 下野宇都宮氏姻戚関係にあった中原姓の宇都宮信房平安末期宇都宮に最も早く進出した武者一人であった京都東山広大な寺地寄進するような有力御家人でもあった。源平合戦の後、源頼朝各地平家残党狩りを行わせた。九州敗残兵逃げ込み予想された地であった薩南諸島の貴海島平定鎮西奉行天野氏命じられ宇都宮信房らも九州下向した。困難なであったが、1188年信房らが渡海し島に入り制圧している。信房はその恩賞として豊前国田川郡にある伊方荘の地頭職与えられた。信房拠点としたのは豊前国衙に近い仲津郡木井馬場であった信房はここに下野から宇都宮大明神勧請した木井神社)。1188年頃には鎮西九州古名)を十分に支配するために信房九州移住したようである。以後子孫たち九州の地に深く根を下ろした宇都宮氏18代鎮房の時代には3万石の小大名となったこの頃本拠地城井谷の伝法寺本荘移されていた。豊臣秀吉九州征伐に際して嫡子朝房が島津攻め先鋒担っていた。その後九州国分けの際に鎮房には伊予国今治への国替え命じられた。これを鎮房は拒否した豊臣方対立することとなった宇都宮氏豊前国一揆経て最終的に黒田孝高長政親子調略により、滅亡した豊前宇都宮氏支流としての野仲氏 信房の弟である重房は、建久7年1196年)に下毛郡野仲郷に入部した1198年長岩城築いた。これ以降重房の子孫は野仲氏を名乗り、野仲郷司・野仲郷惣地頭職を世襲して大きな勢力となった14世紀になると、野仲氏による宇佐神領への侵出顕著となってくる。南北朝末期から豊前国においては大内氏影響強くなってくる。大内氏180年わたって支配した豊前において野仲氏は下毛郡代を世襲していた。野仲鎮兼の代ー野仲氏最後当主になって豊後大友氏豊前侵攻始まった弘治2年1556年)に大内氏毛利氏戦っている隙に大友義鎮豊前攻めてきた。鎮兼は長岩城籠城し、終的には両野仲氏側が敗北認めるも、大友氏側から旧領安堵される。その後両者の間には幾多攻防があった。秀吉九州征伐後の国分け豊前南部郡は黒田孝高領地となった((鎮西456))。この直後領内の諸豪族一揆勃発した豊前の国一揆である。野仲氏も一揆中心的な存在として上毛郡まで進攻した。野仲氏は長岩城籠城したが、数において勝る黒田方は城を包囲し諸隊交互に進軍させ、遂に楼門打ち破った。これをみた野仲鎮兼は一族共に自刃した。ここに野仲氏は滅びた伊予宇都宮氏について 承久3年1221年)、後鳥羽上皇鎌倉幕府討幕の兵を京にあげ、反乱起こした。しかし、幕府軍一ヶ月足らずで都を制圧し反乱鎮圧した。この承久の乱宇都宮一族従軍し宇都宮氏五代頼綱の子の頼業や時朝が宇治橋合戦活躍した。頼綱自身は兵を率いことはなかったが、一族の功によって伊予国守護職与えられた。 伊予宇都宮氏豊前宇都宮氏から出た豊房(野仲郷の豊前宇都宮氏の祖重房の兄信房から4代目以降大津大洲)を拠点戦国末期まで続く。豊房には子がなく、宇都宮貞泰の子宗泰を養子にして守護職を継がせた。「大洲宇都宮系図」の貞泰の項に「六郎、始景泰美濃守遠江守野州宇都宮住人、後京都住す法名智」とある。貞泰には貞宗・宗泰の二子がいて、貞宗伊予守護職に任じられ、宗泰は伊予宇都宮二代として家督したことになっている。恐らく、最初は泰宗の子二代の時景の弟である貞泰に与えられたのであろう。貞泰の後は嫡子貞宗継承され、その年代先に記したように六波羅からの感状から元応元年1319年)ごろと推定される以後天正13年1585年)、土佐長宗我部元親によって滅ぼされるまで存続した。直接かかわったかどうか不明であるが、野中三郎左衛門親孝はその出自遠縁名家滅ぼしたことになる。 キリシタンになった親孝の甥たち・・・桑名タミアン古庵 野貞吉には二人の娘がいたようである。一人山本左衛門進の妻となったもう一人の娘茂は子供のいない近隣五百蔵家子供時代養女となった推測される五百蔵左馬進は香北の五百蔵城主であった長宗我部氏三家老の一人として桑名丹後守重定がいた。その長子である桑名太郎左衛門光の子である藤次は元親の指示により後継ぎのなかった五百蔵左馬進養子となり、養父の名である左馬進を名乗り、その養女茂と婚姻した。1600年慶長5年)に関ヶ原の戦いの後に長宗我部氏改易してから、土佐出て紀伊国田辺旧知浅野左衛門佐仕えた左馬進と茂との間には之丞、也、古庵、休務出生順)という4人の男子儲けられた。之丞の出生年不明だが、也は1605年田辺紀伊国)にて出生した1609年に古庵が出生した1614年休務出生した1615年大坂の陣で父藤次戦死した大坂落城後母子紀伊から母方伯父野中三郎左衛門親孝の住んでいた姫路移り住んだ。茂は高木弥三右衛門嫁いだその後高木浪人となり、他国出た。古庵の兄である之丞は父方桑名姓を名乗って高松住んでいた。之丞はいかなる機縁からか定かでないキリシタンになっていた。高松移住した理由は、当時のその地では前領主であった十河氏キリシタンであったことから、キリシタン寛容であり、受け入れ素地があったのではないか考えられる。 古庵はこの兄を頼って高松にわたり、西浜住んだ新来也と古庵も長兄之丞の導きキリシタンとなった。古庵は霊名をタミアンとつけた。国法背いてキリシタンになっていた古庵は、伯父野中三郎左衛門親孝の説得によって改宗したようである。その後、古庵は土佐帰り奈半利奈半利町)で医を生業とした。その後、古庵は高知帯屋町高知市帯屋町)で医業営んでいた。キリシタンだとの訴人があり、次兄とともに古庵は捕えられた。帰郷15年して一族迫害され悲惨な運命をたどることになった34歳投獄された古庵はその後80歳で獄死した。晩年獄中生活寛大であり、草花などを植えて楽しんでいたようである。古庵の一人娘である「てう」は当局によって縁組許されず、廿代町にて41歳病死した。古庵ら一族の墓は高知市内にある(高知市西久万高野谷の通称ゴロゴロ堂/西宮神社西側位置す)。古庵の信仰について一度改宗しいるようだが、これは単に表面的なものであって事実使徒信仰をもって生涯送ったと評せられている。なお之丞は江戸で亡くなるまで信仰良心忠実であったという。

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