国分け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:57 UTC 版)
小瀬川が国境となったのは天平6年(734年)のことである。 1939年(昭和14年)に書かれた『厳国沿革志』によると、近世以前の小瀬川は現在の大竹市の北山麓に沿って流れ、河口は現在よりも北側にあり、現在の河口である大竹と和木は一続きであったという。そこは大滝村(あるいは大竹村)と呼ばれる一つの村であった。その後、繰り返す洪水によって現在の川筋が移行し現在の河口部が形成され、大滝村は川によって安芸国大竹村と周防国和気村に分けられたという。こうしたことから大竹・和木ともに密な関係にあり、近世まで小瀬川が国境として意識されていなかったという。安土桃山時代、双方ともに毛利氏の支配下にあった。 関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は防長二州に減封され、毛利氏が治めていた安芸には福島氏次いで浅野氏が封ぜられ、周防と安芸は明確に分けられた。ここから小瀬川が「国分けの川」となり、両国の利害を巡って度々紛争が起こった。最も頻繁かつ大きく争われたのが境界確定紛争であり、その原因は 河口部は小瀬川流域の中で最も耕地が多く、広大な干潟や磯があった。 大竹・和木の両村はそれまで密接な関係にあったため、土地の多くは両村の共有関係にあった。 小瀬川河口部の三角州は当時いくつかの川筋があり、洪水のたびに地形を変えていた。 境界確定紛争は、安芸側の資料によると江戸期に21回、『図説 岩国・柳井の歴史』によると記録に残るだけで30回以上行われたとされる。明暦元年(1655年)と宝暦2年(1752年)に起きた与三野地騒動を始め、川除論、流木論、貝取論など、紛争の原因は多岐に渡った。紛争は時に乱闘も伴い、宝暦2年(1752年)の与三野地騒動では和木村に死者が出るほどであった 。これらの紛争中、両藩は政治的配慮から小瀬川本流から農業用水を取水せず、支流からの取水に留まった。 享和元年(1801年)、安芸・長州両藩によって和解が成立し、享和2年(1802年)境界水路(現在の川筋)を掘削する工事が行われ、水路の中央が境界となった。これ以降、小瀬川本流からの農業用水取水が行われるようになった。またここから両藩による干拓工事が進み、河口が沖側へ移っていった。これで河口部の堤防法線が現状のように固まった。 幕末、第二次長州征伐時、この地での戦闘は芸州口の戦いの発端となった。 近代に入り、両岸は広島県・山口県それぞれが管理した。現代に入り枕崎台風・キジア台風・ルース台風によって甚大な被害が発生していた。また河口にコンビナートが整備され多くの工場が誘致された。ただ小瀬川の川水を必要とする企業の水利希望量が小瀬川の渇水流量を大幅に上回ることになり、分配量を巡って工場を誘致した広島・山口両県の意見が対立した。そこで建設大臣裁定に持ち込まれ、昭和33年(1958年)両県の使用水量分配が決定された。また両県から建設省に工事を委任という形で、治水・利水目的の多目的ダム「小瀬川ダム」が昭和39年(1964年)に竣工した。このダムは両県が管理しており、複数の都府県が共同で管理する日本唯一のダムである。昭和43年(1968年)一級河川の指定を受け河口から10.7kmは国(建設省)の直轄管理となった。 河口の山口県和木町は岩国市と市町村合併の話があった。それを受け入れなかったのは、和木が安定した法人税収が入る工場町であるためであり、また広域生活圏としては岩国市に包括されるが買物や交通など日常生活圏は小瀬川の対岸にあたる大竹市と密接な関係にあるためとされる。
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