国境の川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:57 UTC 版)
後述のように、この川は古代から安芸国と周防国の国境とされており、天平6年(734年)にも国境と定められたという記録がある。これは、当時の洪水で河道が移動してしまったために、このとき改めて国境を定め直したのだろう、と推測されている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、安芸・周防を含む中国地方を支配していた毛利氏の所領が分割され、川は安芸国広島藩(福島氏)と周防国長州藩(毛利氏)の領地境となり、「国分けの川」となった。川はしばしば氾濫によって河道を変え、慶長16年(1611年)以降、両藩の間で境界をめぐる紛争が頻発した。 文政2年から3年頃(1819年-1820年)の調査を基に編纂された「国郡志下調郡辻書出帳」では、「大川」(おお-)や「御境川」(おさかい-)との呼称を記録している。 詳細は#国分け参照
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国境の川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/25 02:56 UTC 版)
源流からモンマスでワイ川に合流するまでの短い流路の殆どは、イングランドとウェールズの国境となっている。ワイ川もモンマスからチェプストウ(英語版)でセヴァーン川に入るまでの半分はイングランドを流れる。モンマスでは、モノウ橋という中世の個性的な橋が架かっている。遊歩道のモノウ・バレー・ウォーク(英語版)が川に沿って伸びている。
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