物語の留意点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 07:44 UTC 版)
姉川の戦い 浅井軍の策略 両軍は姉川を挟んで対峙するが、夜になると浅井軍は松明を連ねて小谷城へと引き上げていく様子が織田軍より観察された。横山城救援を諦めたように見せかけたのだ。こうして再度、横山城を攻めるであろう織田軍に奇襲攻撃を浴びせるのが『母喰鳥(フクロウ)の計』である。作戦の立案者は山崎新平俊秀。織田軍不利の中、ゴンベエは浅井軍の先駆け大将の山崎新平を打ち取り士気を上げる。横山城を攻めていた織田・徳川諸将が戻って帰り戦いは織田軍の勝利となる。 信長の首都(美濃)放棄 三方ヶ原の戦いの最中、陣中で信玄倒れるも武田軍はそのまま越年し、徳川領野田城を攻める。さらに織田の本拠地美濃に侵攻し放火・略奪を始めた。信長は家臣一同を岐阜城に招聘し、岐阜城を捨て京を拠点とすることを言い渡す。強き武田に岐阜を与え、それ以上の領土を弱き朝倉から奪うことも宣言する。こうして京侵攻が開始され、荒木村重、細川藤孝も味方に加わる。将軍義昭の二条城を攻略し、上京(かみぎょう)を焼く。ところが武田は岐阜に入らないために信長は一旦岐阜に戻る。そして信玄は死す。 竹中半兵衛の奇策 小谷城攻略戦。竹中半兵衛の奇策で堀を渡るため櫓を倒し橋とし、これにより第一関門を突破、城下町に兵がなだれ込んだ。また、小谷城の中枢たる「虎口」には堡塁のような掩体と隠し銃座があり、センゴクの部隊は大損害を被ってしまう。爆弾も使用され地獄の惨禍に見舞われるも僅か一日で「虎口」を陥としてしまう。 信長の天下諸色(臨時徴税) 信長は高天神城への後詰(救援)に向かうがわざと遅延し、勝頼との決戦を避ける。こうして高天神城は勝頼の手に落ちる。やがて家康と家臣団は信長に謁見する。酒井忠次は「徳川の激情の血は織田家の無情なる扱いを許しましょうや。家康自ら武田になびいても文句はないと」と怒りをぶちまける。信長は詫びとして夥しい黄金を家康に贈る。これは信長が天下諸色(臨時徴税)により集めたものだ。家康はこれに「慰謝料としてではなく掛け金として貰い受ける」と返答する。こうして両家の絆はかろうじて保たれたのであった。 長篠の戦いの全貌 先ずは鳶ヶ巣山砦に勝頼本陣があると見た酒井忠次がこれを襲撃・占領に成功する。しかし、これを知った勝頼はいたずらに兵を割く下策であると気にも留めない。 勝頼の狙いは山県・馬場の最強部隊を両翼に配し、敵両翼を攻撃。敵中央がこれに兵を割き手薄になったところに中央突破をしかけるというものであった。しかし、勝頼軍は設楽原の田畑のあぜ道を通るため“殺し間”(障子堀と同じ理屈)に飛び込むこととなる。激しい銃撃にさらされるが竹束に守られ、やがて田畑を横隊で進む“仕寄り”に切り替え織田の柵に襲いかかる。驚くべきことに織田方陣地全体が城塞のようであり武田兵はそこを登り侵入してくる様子が描かれている。 中央突破を図るべくついに勝頼本陣が前進を開始する。信長は単騎、駆けつけ野々村鉄砲隊に下知を下す。「一の柵、ニの柵が破られても鉄砲を放つな」。これは最前線の味方を見殺しにしてよしとの命である。ちなみに秀吉軍は全ての陣を見渡せる高台の上にあった。信長の企図するところは鉄砲の交換射撃では武田を防げない。局地的な殺し間ではなく全部隊による包囲一斉射撃を目論んでいた。侵入して来た真田、内藤軍に対する織田本軍、秀吉軍、明智軍による射撃戦が展開する。猛烈な射撃音に事態の異常を察した山県昌景は単騎、勝頼のもとへと走るが射殺されてしまう。こうして武田勢は崩れ去り撤退することになる。 貨幣経済と織田家の高転び 明智は信長の居る前で参内した家康に「信忠補佐役として貴殿に日の本を託す所存」と伝え、「織田が高転びを起こさぬためその因果について知らねばならぬ」と語る。かつて大内氏は中国で揉め事を起こして銭の流れが滞るようになり撰銭が進行してしまった。また、尼子氏は銀の中国輸出で潤っていたもののスペインから中国への銀流入によりやはり撰銭が起こり没落していった。信長は貨幣の流通停滞が織田家の存続に関わることを憂慮していた。そこで信長は海外に進出することで富の確保を図ることを目論んでいたのである。 毛利軍が高松城を救援しなかった理由 高松城では清水宗治が水攻めに耐え籠城中。宗治は小早川隆景から「籠城策により厭戦の気分を生み出し、和睦の道を探る。羽柴は大きくなり、やがて信長に牙を剥くであろう」と言い含められていた。毛利・吉川・小早川4万の大軍が高松城救援に着陣する。「堤を破壊するべし」の声が毛利陣内に起こるが、戦場を観察した吉川元春はそれでは敵の包囲圏内に飛び込むことになると識る。羽柴軍の守りは固く堤の破壊も救援も困難と判断したのである。なお、堤は12 - 19日間という短期間で作られた。これは堤の長さが300m程度に過ぎないから可能であったとの解釈を作者は示している。 光秀の思惑 信長を弑した後、光秀は朝廷・寺社に銀子(ぎんす)を献上し、抜かりなく政治工作を行う。想定される戦場の大山崎では町を戦火に晒さないとする禁制が敷かれた。光秀は大山崎では保(地縁共同体)により民が主体的に町を治めており、理想の社会と見ていた。故にこの町を戦場とすることに反対であった。光秀は勝龍寺城を本陣としてその近辺に土塁を築いていた。数で優る羽柴軍に先ず包囲戦術をとらせ敗走し、土塁と土塁の狭間を“殺し間”としそこに敵を誘い込んで殲滅する作戦である。戦いの流れは光秀の思惑通りに進んだが、殺し間に殺到する羽柴軍の勢いは凄まじくついに明智の軍勢は敗走してしまう。 お市の方を柴田修理に与える 秀吉は清洲城に赴き市とその娘たちに会う。秀吉は市に柴田に嫁ぐように申し出る。その対として娘を羽柴家に嫁がせ織田家内の緊張を緩和する考えでいた。秀吉は長女の茶々を於次丸(信長の四男で秀吉の養子)に嫁がせる気だ。羽柴・柴田両家に誼を作るこの考えに市も理解を示す。 ※勝家は12人もの妾を囲みながら正妻がいない。これはかつて信長に弓を引いたことに対する配慮であった。 清須会議が開かれる。三法師の後見人を信孝とすることで合意する。また、国分けについては武功第一の羽柴が最大領土を獲得する。 四国侵攻の理由 1・毛利は羽柴に中国地方を大きく割譲した見返りに毛利が四国領を掠め取る密約を結んでいる。そして羽柴が四国領を毛利に進上する形式をとるものとしている。(井上春忠宛文書) 2・長宗我部がかつて信長に送った手紙には闕字(名前の上に空白を入れる)が入れられており畏敬の念を示していた。ところが秀吉への手紙にはそれが無くこれを侵攻の口実としている。 長宗我部と四国経済 四国へ侵攻したセンゴクらを苦しめた長宗我部の鉄砲集団は海部から堺への木材利益で成り立っている。しかも買い手の得意先は上方の普請事業だ。火蓋を切って争っても銭の面では持ちつ持たれつの関係にある。 また、沿岸部の者は上方勢を受け入れている。彼らは上方との商いを生業とする者多く、むしろ上方に組み込まれた方が潤うのではと考えている。 一次史料 作者は本作品を描くにあたって多くの一次史料や研究書を用いている。各巻の巻末には信長公記、甲陽軍鑑、日本史(ルイス・フロイス)、日本戦史(陸軍参謀本部)、改選 戦国家譜、雑兵物語、細川幽斎覚書など信頼性の高い一次史料の名を連ねている。
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