阿波・讃岐・伊予への侵攻とは? わかりやすく解説

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阿波・讃岐・伊予への侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)

長宗我部元親」の記事における「阿波・讃岐・伊予への侵攻」の解説

土佐統一後、中央統一事業進めていた織田信長正室縁戚関係から同盟を結び、伊予国阿波国讃岐国侵攻していく。 阿波讃岐方面では、畿内大勢力を誇っていた三好氏織田信長敗れて衰退していたが、十河存保三好康長三好氏生き残りによる抵抗や、天正4年1576年)の吉良親貞早世などもあって、当初思うよう攻略が進まなかった。しかし天正5年1577年)に三好長治戦死するなど、三好氏凋落顕著になる天正6年1578年2月、元親は阿波白地城攻め大西覚養討った。また次男親和讃岐国の有力豪族香川信景養子として送り込んだ阿波国では三好長治実弟十河存保三好康俊激しく抵抗するが、元親は天正7年1579年)夏に重清城奪って十河軍に大勝した康俊に対して岩倉城追い詰めて実子人質にとって降伏させた。この年には讃岐国羽床氏なども元親の前に降伏し天正8年1580年)までに阿波讃岐両国をほぼ制圧した伊予方面においては南予地方では軍代であった久武親信天正7年1579年春に岡本城攻め土居清良前に戦死するなどした。しかし東予地方では白地から圧力誘いをかけて金子元宅や妻友春・石川勝重らを味方にして平定中予地方支配していた伊予守護の河野氏毛利氏援助得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定長期化することになった

※この「阿波・讃岐・伊予への侵攻」の解説は、「長宗我部元親」の解説の一部です。
「阿波・讃岐・伊予への侵攻」を含む「長宗我部元親」の記事については、「長宗我部元親」の概要を参照ください。

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