本山親茂とは? わかりやすく解説

本山親茂(もとやま ちかしげ) ????~????

○貞茂 将監
◇父:本山茂辰 子:本山次郎兵衛
 土佐七雄一氏父と共に、同じ七雄長宗我部氏らと争うが、居城本山城攻略され、降伏長宗我部氏居城岡豊城に住む。

本山親茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/11 10:26 UTC 版)

 
本山 親茂 / 本山 貞茂
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年(1545年)?
死没 天正14年12月12日1587年1月20日
改名 貞茂(初名)→親茂
別名 太郎左衛門、将監
主君 長宗我部信親
氏族 本山氏
父母 父:本山茂辰、母:本山夫人長宗我部国親の娘)[1][2]
兄弟 親茂、茂慶(内記)、茂直(又四郎)
テンプレートを表示

本山 親茂(もとやま ちかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将本山氏の当主。

元の名を貞茂(さだしげ)といい、長宗我部元親に臣従後、親茂と改名した[2]

生涯

本山氏土佐国中部を支配し、土佐七雄に数えられていた。父の本山茂辰長宗我部氏と長年争っており、土佐国西部の大名一条氏による和睦の取り成しで長宗我部国親の娘(本山夫人)を娶り[3]、貞茂は嫡男として誕生した[1]

それでも、長宗我部氏との争いは収まらず、永禄3年(1560年)5月の長浜の戦いでの敗北後は、本山氏は押される一方であった。

永禄5年(1562年)9月16日、貞茂の伯父にあたる長宗我部元親が居城の朝倉城を攻めた際、貞茂は奮戦して撃退する活躍をみせた[4]。続く9月18日の鴨部の宮前の決戦でも奮戦し、本山方は長宗我部方の将兵511人を討ち取った[5]。もっとも、本山方も郎党85人、兵士235名が戦死しており、痛み分けともいえる[5]

しかし、長宗我部氏の攻勢は続き、本山氏からは離反者が多数出た[5]。そして、朝倉城や本山城を失ってからは、瓜生野原の瓜生野城にて篭城した[6]

永禄7年(1564年)、父の茂辰が病死[注釈 1]したあとも、貞茂は瓜生野で抵抗を続けた[8]

永禄11年(1568年)、貞茂は瓜生野を攻められ、元親に降伏した[8][9]。貞茂や母の本山夫人(元親の姉)らは元親の本拠である長岡郡岡豊に送られ、岡豊城下に居住した[8]

貞茂が降伏した時期については、永禄11年冬頃に降伏したとする説[8]のほか、以下のような説がある。ただし、降伏の時期に関して、確実な証拠となる一次史料は発見されていない[10]

  • 永禄11年4月を最後に貞茂の発給文書が止まることや[9][10]、永禄12年(1569年)の夏から秋にかけては長宗我部氏と安芸氏が交戦状態にあることから[2]、永禄11年半ばから永禄12年春までの間に降伏したとする説がある[11][注釈 2]
  • 他方、『元親記』には「元山と弓矢十二年」という記述があり、本山氏と長宗我部氏の戦いが本格化した永禄3年(1560年)から12年目で戦いが終わったと考えると、本山氏関係文書の終見である元亀2年(1571年)と一致することから、本山氏の降伏は元亀2年のこととする説もある[注釈 3]

その後、貞茂は元親に気に入られて「親」の一字を与えられ、親茂と名乗った[2]。また、一門衆に加えられ、元親の嫡男・長宗我部信親の家老として仕える。その後、親茂は長宗我部氏の伊予進出で活躍している[13]

長宗我部氏が四国征伐によって豊臣氏に臣従すると、天正14年(1586年)の豊臣秀吉九州征伐に元親・信親父子は参陣し、親茂もその配下として同行した[14]

同年12月12日、戸次川の戦いで軍監・仙石秀久の作戦失敗により、島津氏の軍勢に囲まれた親茂は主君の信親と共に奮戦するも、両者共に討ち取られた[14]。享年42。

親茂の死後、本山氏の家督は吉良親貞の養子になっていた弟の吉良貞俵が本山氏に戻り、本山茂慶(内記)と名乗って家督を継いだという[15]

人物

親茂は父の茂辰に勝る勇将だったと伝わる[16]。『土佐国古城伝承記』には、長宗我部元親が朝倉城を攻めた際、親茂が「伯父(元親)に一矢参らせん」と大弓で勇ましく戦ったと記されている[14]

脚注

注釈

  1. ^ 茂辰は降伏して「本山大夫法師」と称して、天正年間末期の段階で生存していたとする説もある。また、この説では茂辰の降伏後も妻(本山夫人、元親の姉)や子・親茂はこれに従わずに抵抗を続けたとする[7]
  2. ^ 平井上総は、永禄11年4月に長越前守に感状を発給したのを最後に貞茂の発給文書が見られなくなることから、この頃に何か転機があったと考察している[10]
  3. ^ 朝倉慶景は、『元親記』には永禄3年から12年間続いたとあり、本山氏の当主としての貞茂発給文書も元亀2年正月まで存続していることから、この年が降伏の年との考えを示している[12]

出典

  1. ^ a b 平井 2016, p. 22.
  2. ^ a b c d 平井 2023, p. 110.
  3. ^ 山本 2009, p. 18-19.
  4. ^ 山本 2009, pp. 34–35.
  5. ^ a b c 山本 2009, p. 35.
  6. ^ 山本 2009, pp. 35–39.
  7. ^ 朝倉「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」、2014年、P223-224。
  8. ^ a b c d 山本 2009, p. 39.
  9. ^ a b 平井 2016, p. 24.
  10. ^ a b c 平井 2023, p. 109.
  11. ^ 平井 2023, pp. 109–110.
  12. ^ 朝倉、2014年、P224・231
  13. ^ 平井 2023, p. 111.
  14. ^ a b c 平井 2023, p. 112.
  15. ^ 朝倉、2014年、P226-228。
  16. ^ 山本 2009, p. 34.

参考文献

  • 山本大『長宗我部元親』(新装版第四刷)吉川弘文館、2009年(原著1960年)。ISBN 978-4-642-05103-3 
  • 朝倉慶景「戦国末期の国人本山茂辰とその家族たち」(初出:『土佐史談』232号(2006年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7))
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親 ―四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年8月。 
  • 平井上総 著「本山清茂・茂辰・親茂 ―土佐国中央を制した国人」、平井上総 編『戦国武将列伝10 四国編』戎光祥出版〈戦国武将列伝〉、2023年1月10日、103-114頁。 

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳

英語⇒日本語日本語⇒英語

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本山親茂」の関連用語

本山親茂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本山親茂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2026 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの本山親茂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS