四国制圧期の逸話とは? わかりやすく解説

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四国制圧期の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)

長宗我部元親」の記事における「四国制圧期の逸話」の解説

土佐一国統一する大名成長し土佐の出来人呼ばれた土佐統一した後、天正5年1577年)、阿波雲辺寺訪れ住職俊崇坊四国統一の夢を語った住職は「薬缶水瓶をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我がは元親という名工鋳たである。いずれは四国全土を覆うとなろう」と答えた土佐統一果たした年、37歳若さで「蹊恕三(雪渓如三)」と法号称している。「蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途万物生じるという意味が込められているという。 家臣に「四国覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣十分な恩賞与え家族安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる。『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏扶持させんと思ひ四方発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。 讃岐国羽床鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦戦術行ったが、全部刈り取って領民気の毒だ思い、一畦おきに刈取らせた同族秦氏を租に持つ伊予国早川城主の秦備前守との親交深かったとされている。天正の陣終えた備前守土佐国逃れたとあり、秦備前守家系図には長宗我部宮内小輔秦元親長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述残されてある。

※この「四国制圧期の逸話」の解説は、「長宗我部元親」の解説の一部です。
「四国制圧期の逸話」を含む「長宗我部元親」の記事については、「長宗我部元親」の概要を参照ください。

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