四国勢の到来と織田軍の上洛頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
「永禄の変」の記事における「四国勢の到来と織田軍の上洛頓挫」の解説
阿波の三好長治の家老篠原長房はこの機に乗じて四国勢を動員し、永禄9年(1566年)6月に摂津兵庫津に上陸した。四国勢と三人衆方は8月までに摂津・山城の松永方諸城をほとんど攻略し、9月には摂津の松永方として最後に残った伊丹親興も三人衆に降った。河内の畠山氏も和睦を申し入れたため、松永方は厳しい状況に立たされた。篠原と三人衆は8月28日に河内高屋城に集結し足利義親擁立について評議した。義親はかつての堺公方義維の息子で義輝には従弟にあたり、父子ともに天文初年以来長らく阿波に逼塞していたが、篠原と三人衆が提携したことで次期将軍の可能性が一気に高まった。 そのころ近江矢島の足利義秋は尾張の織田信長の上洛に期待を寄せて美濃の斎藤龍興との和睦を働きかけ、信長もこれに応じて義秋に供奉する意向を示し、上洛計画が具体化していた。しかし、篠原・三人衆の手は近江にも及びつつあり、8月3日には矢島の対岸坂本に出勢してきた三好方を退けた義秋方であったが、近日中の信長出陣を諸方面に伝え参陣を呼びかけていた8月29日、六角氏が三好三人衆に通じ義秋を捕縛する兵を差し向けたため、矢島を脱して若狭に退くこととなった。またこのとき織田軍は美濃に入ったところを斎藤軍に阻まれ翌閏8月8日に退却した。上洛計画は、前提としていた義秋・六角・斎藤・織田の提携が崩れたために破綻したのである。義秋は11月に朝倉義景を頼って越前一乗谷の安養寺に入った。 京都から遠ざかった義秋と入れ替わるように、阿波の義維・義親父子は9月に渡海して摂津越水城に入り、朝廷との交渉を進め、12月7日に摂津富田(現在の大阪府高槻市)の普門寺に入って入京の機会を窺った。義親は12月28日には義秋と対等の従五位下左馬頭に叙任され、翌永禄10年(1567年)正月に義栄と改名する。
※この「四国勢の到来と織田軍の上洛頓挫」の解説は、「永禄の変」の解説の一部です。
「四国勢の到来と織田軍の上洛頓挫」を含む「永禄の変」の記事については、「永禄の変」の概要を参照ください。
- 四国勢の到来と織田軍の上洛頓挫のページへのリンク