阿波丸事件と軍法会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:32 UTC 版)
「チャールズ・E・ラフリン」の記事における「阿波丸事件と軍法会議」の解説
「阿波丸事件」も参照 2月24日からの4回目の哨戒において、ラフリンの「クイーンフィッシュ」は冒頭に記したように、1945年4月1日に緑十字船「阿波丸」を撃沈する。いわゆる阿波丸事件である。 直前の3月28日、太平洋艦隊潜水部隊(英語版)司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)は指揮下の全潜水艦に以下のようなメッセージを発信した。ロックウッドが「阿波丸」に関するメッセージを発信したのは二度目で、最初のものは3月上旬に発せられていた。しかし、この最初の電文はラフリン以下乗組員は見なかったし注意もしなかった。 3月30日から4月4日までの間に、担当海域に安全を保証された「阿波丸」が通過する。「阿波丸」は夜には点灯して航行し、船体に白十字を描いている。 ラフリンの「クイーンフィッシュ」が「阿波丸」に関する二度目の電文を受信したのは間違いないが、拙い文章であったために、ラフリンはこうつぶやいた。「生まれてから、こんなあほうな電文は見たことがない」。。潜水艦宛ての電文は、そのほとんどがロックウッドの腹心であったリチャード・G・ヴォージ大佐(アナポリス1925年組)が自ら起草するか目を通すかしていたが、この「阿波丸」通過に関する二度目の電文に関しては、ヴォージがフィリピン出張中であったため副官が作成したものであった。電文に関する不運が二度続き、「シーフォックス」からの報告に基づき、ラフリンの「クイーンフィッシュ」は濃霧の中で「駆逐艦」を探知し、魚雷を4本発射して目標の「駆逐艦」を撃沈し、生存者1名を救助した。この生存者、「阿波丸」の調理師であった下田勘太郎の口から電文が洗いなおされ、撃沈したのが「阿波丸」であることを知った。ラフリンは「そんな馬鹿な!」と叫んだのちロックウッドに撃沈を報告し、「シーフォックス」と捜索を行いながら太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥(アナポリス1905年組)と合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦本部長アーネスト・キング元帥(アナポリス1901年組)にも報告。キングは即座に以下のように返答した。 クイーンフィッシュは、ただちに帰投せよ。ラフリンは軍法会議にかけられるであろう。 下田以外の生存者は見つからなかったが、積荷と思しきゴムが4,000個も発見され、そのうちの4つを回収してサイパン島に帰投した。 事件に関し、ロックウッドの懸念したことは以下の3つであった。 事件が、アメリカが「ルシタニア撃沈事件」のような恥ずべき騒動の原因を作ったと思われること 日本側が捕虜に対して「野蛮なる報復」を行う可能性 上記2つの点でラフリンが矢面に立たされること ロックウッドは弁護人を介したラフリンの証言に対し、3月28日の電文に関するいくつかの非難は受け入れた。弁護側は2つのことを持ち出してラフリンを弁護した。一つは「阿波丸」が安全が保証された通告済みの航路を航行していたとしても、生存者や積荷のゴムがそれと無関係であるかどうか。ラフリンは、それらが「阿波丸」のものかどうかは分からなかったとし、ともかく攻撃したのは間違いないと述べた。もう一つは意図の欠如に関してであった。ラフリンが採った戦術は小型艦船に対するものではなく、明らかに大型艦船に対する戦術であった。戦術に関する論争に際して、ラフリンのクイーンフィッシュにおける過去の哨戒記録を洗いなおした。ラフリンは審理では好意的に振る舞い、「クイーンフィッシュ」を手放すことを惜しんだ。 しかし、軍法会議は「職務と合法的な秩序維持に過失があった」ことを認め、ラフリンは有罪と宣告されて海軍長官からの沙汰を待つ身となった。ニミッツは処罰を寛大にするよう求めたが受け入れられず、逆にラフリンに重いペナルティが課せられることとなった。そして、キングは「ラフリンは今の立場にはいられない」と発言した。
※この「阿波丸事件と軍法会議」の解説は、「チャールズ・E・ラフリン」の解説の一部です。
「阿波丸事件と軍法会議」を含む「チャールズ・E・ラフリン」の記事については、「チャールズ・E・ラフリン」の概要を参照ください。
- 阿波丸事件と軍法会議のページへのリンク